紙とペンの相性 実際に書いてみました!!【パピルプラス商品】

皆さん!  最近紙にメモをとる機会はありましたかー?
なんだか変な質問になってしまいましたね……(笑)

この前、桜を見かけたと思ったらもう6月。入社1年目の新人の方々はきっと、嫌と言う程メモをとる機会がたくさんあることと思います。私も新入社員の頃はたくさんメモをとりました。

普段私たちがメモをとるために使用している紙といえば……、
メモ帳やノートに一般的に使用されているのは、非塗工の上質紙になります。
また上質紙は筆記に適しているので、ボールペンやシャープペンシルなど様々な種類の筆記具でも、総じてサラサラと書きやすい紙です。筆記に適している紙なので、これは当たり前のことですよね。

一方で塗工紙は、表面に塗料を塗布して滑らかさや光沢感などを出す加工が施されていて、印刷用途で使用されることが多く、筆記具によっては書きにくい紙もあります。
つまり、紙とペンには相性があるんです! なんだか人間みたい……(笑)

印刷の仕上り具合は、紙の見本帳やタトウに印刷見本が刷り込まれているので、目でみて確認できますが、この紙とペンの相性。これは実際に書いてみないとわかりません……。

ということで、今回はどの紙(塗工紙)がどのペンと相性が良く、書きやすいか。実際に書いて検証してみました! 
検証結果に関しては、私の勝手で個人的な意見と感想になっていますので、あくまで”参考”とお考えください。(笑)

   

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今回使用したペンと紙

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製紙工場探訪#3 O&Cアイボリーボード/徳島工場 王子製紙/富岡工場

皆さんこんにちは!
今回は製紙工場見学レポートの第3弾です。
 
先日、O&Cアイボリーボード株式会社/徳島工場を訪問してきました。(2017年10月生産開始)
昨年秋に王子マテリア株式会社から上市された、OKボルビザン(FSC認証品)とOKフレースPRO(FSC認証)の2銘柄のお披露目を兼ねての見学会でした。

「んっ!なんだ…」とお気づきと思いますが、もうここまでで3つの社名が出てきましたね。ちょっと本筋から外れてしまいますが少しご説明しましょう。

私たちシオザワは紙の卸商として、前述のOKボルビザンやOKプレースPROを販売するに当たり、代理店を通してメーカーである王子マテリアさんから仕入れているのですが、実はこの製品を造っているのはO&Cアイボリーボード㈱の徳島工場なのです。(OEM生産されています)
そもそもO&Cアイボリーボード㈱は王子製紙㈱と中越パルプ工業㈱の合弁会社(O&Cは両社の頭文字)で、王子製紙富岡工場の10マシン(2010年3月停機)を改造して雑誌の表紙や菓子箱に使われる高級白板紙や紙コップ・食品容器に使われる加工原紙を生産しています。王子製紙富岡工場の中に、O&Cアイボリーボード㈱の徳島工場があるということです。ちょっと大人の都合でややこしいですね!
また、桑野川(川幅340m)河口の富岡港を挟んだ辰巳第二事業所にある王子ネピア㈱徳島工場では、ティッシュペーパーなどのサニタリー製品を生産しています。辰巳第二事業所へは、深さ20m、全長840mのトンネルで原料、電力などを送っているそうです。

ということで、王子製紙富岡工場のお話をしていきます。

  

【富岡工場沿革】

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2017直木賞・本屋大賞W受賞『蜂蜜と遠雷』 "装丁のこだわり"徹底解剖! その②

 

前回に引き続いての第2回。
今回が本題です!

では早速……

 

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  装丁のこだわり

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①カバー

 

まずはカバーから解説します。
用紙は「OKミューズガリバーエクストラ ホワイトS」

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2017直木賞・本屋大賞W受賞『蜂蜜と遠雷』 "装丁のこだわり"徹底解剖! その①

先日、2018年本屋大賞が発表されました。
栄えある大賞は、『かがみの孤城』辻村深月著。

やっぱり!
と思った方も多いのではないでしょうか。(かく言う私もその一人)

ということで、今日は『かがみの孤城』について……、

と行きたいところなのですが、
どっこい、あえてそうはせず.
一年前の2017年大賞作品『蜂蜜と遠雷』恩田陸著、その装丁に着目して「徹底解剖!」と題して紙屋的にマニアな目線であれこれと皆様にお伝えしようと思います。
一年前の作品なのですが、どうしてもこの本のことには触れておきたくて……。

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『蜂蜜と遠雷』との出会い

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第156回直木賞&2017年本屋大賞 恩田陸著『蜂蜜と遠雷』。
すでにお読みになった方もいらしゃることと思います。
「まだ読んでな~い」という方、是非お読みになってみてください。
とにかく面白いです。その世界に引き込まれます。

ピアノコンクールを通しての人間模様が描かれた青春群像小説で、人物の心理描写が秀逸なのは勿論のこと、加えて音楽の描写が本当に素晴らしいです。
音楽を文章(テキスト)で表現した際に、その筆致の良さを「音が聞こえるようだ」と評したりします。
ではこの『蜂蜜と遠雷』はどうなのでしょう? 
はっきり申し上げます。「音が聞こえる」を超えて「音が見えるようだ」と。
そう評価するに値するセンテンスが全編を通して展開されているのです。
恩田さんの紡ぐ文章を目で追っていると、いつしか音が転がり始め、その鋭さや柔らかさが演奏会場に響きわたり、更にその音がオーディエンスを、会場全体を、どう揺さぶっているのか、その様(さま)が頭の中で再生されます。
ん~、これぞ読書の醍醐味!
文字量の多い小説ではありますが、読み始めたら止まりませんよ。

って、私は幻冬舎(出版社)の回し者ではありませんが……(笑)

さてと、まずは私と『蜂蜜と遠雷』の出会いからスタートしたいと思います。
それって必要?、と陰口が聞こえて来そうですが……冷汗

出会いは2016年10月。
よく行く書店の新刊コーナーで出会いました。
「おっ、恩田さんの新刊だ」
恩田さんの作品はこれまで、映画化された『夜のピクニック』などなどいくつか読んでいました。
「さて、今回はどんなんだろ?」と思って手にとってみると、まず感じたのが、ずしっと重い。
ぱらっと本を開けてみると、単行本ではあまりお目に掛かることのない上下二段組。それが500ページ以上続いている。
「おっ…」
この時、思いました。「恩田さん、勝負してきたな!」と。

恩田さんほどの作家さんの作品であれば、あえて二段組みにする必要もなく、通常の一段で少し余裕をもたせてページを構成し、上下二巻本として出版してもよかったはずです。いえ、一定量の販売が見込める作家さんの作品なのですから、あえて二段組みにして1冊に収めてしまうよりも、普通に作って上下二巻本として出版した方が、売上げとしては大きかったはずです。

なのに、
それがわかっていて、あえてそうはしなかった……。

何故か?
ひとつには、文字を詰めて二段組みにしてでも全編を1冊にまとめることで、価格的なお得感を出し、結果、読者にとって購入しやすいものにした。別な見方をすれば、それは、多くの人に手にしてもらいたい、読んで欲しい、という恩田さんと出版社の意図の表れ……。
ひとつには、1冊にしたことで”厚くて重い本”になり、気軽に持ち歩くことがしづらいものになってしまっているけれど、それは裏を返せば、「”ながら”読みをしないで、この本とちゃんと向き合って!」という恩田さんと出版社のメッセージがそこに込められているような気がする……。

と、そんなことを、この本を手にした時に勝手にピッと感じてしまったのでした。
まだ出版後まもなくの時期でしたので、世評も耳には入ってきてはいなかったのですが、何だかこの本から不思議なオーラを感じて、手に取った『蜂蜜と遠雷』をそのままレジにもっていった。これが私と『蜂蜜と遠雷』の出会いです。(ちょっと大袈裟ですね。。。汗)

さて、家に持ち帰り、いよいよ読書がスタート。

まずは装丁をながめ、「こってるね~」と感心。
読み始めると、とにかく面白い! ぐいぐいその世界に引き込まれる!
そして、読み進めて小説の世界に浸りながら、同時にこの本の装丁のこだわりにも改めて気づかされることになるのです。「いや~、参りました!」と。

ということで、この後、本題の「装丁のこだわり」に入ることなりますが、今日は一旦ここまでといたします。本題に入る前に、前段だけでこんなにも長くなってしまいましたので。。。すみません。
次回の「”装丁のこだわり”徹底解剖!」をご期待ください!
それではまた。

 

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名刺アレコレ「厚さ、サイズ、用紙」

4月、新年度のスタート!
フレッシュな社会人を街や会社で見かける季節となりました。
企業では、新年度の組織変更に伴って転勤や部門間の人事異動が行われ、何かとバタバタしている方も多いのではないでしょうか。

そんな4月。
この時期の社会人と言えば……、そう、名刺!
新入社員であれ、ベテラン社員であれ、新しい部署名に新しい肩書きが刷り込まれた自分の名刺を持つと、ピリっと身が引き締まるというか、気合いが入るというか…、「よし、今年度もがんばるぞ!」と心に期するものが生まれてきます。
振り返ると、私も社会人になって初めて自分の名刺を手にした時は嬉しかったですね~。「俺も一人前になった!」なんて思ったりして……。

この3月から4月に掛けての時期。私ども紙屋からすると、他の時期に比べてとりわけ名刺用紙が出る(売れる)時期でもあります。当然、名刺の作成を行っている業者さんはてんてこ舞い。印刷機が回りっぱなしということもしばしばです。

さて、そんな業者さんにとってはチョー忙しい時期であるにもかかわらず、この度、迷惑を承知で「昨今の名刺の傾向」について突撃取材を敢行して参りました!
取材先は、様々な業種にわたって数多くの名刺を作成している、実績充分、横綱級の名刺製作会社さん。最先端で仕事をしている方ならではの興味深いお話も聞けましたので、今回はそれらを踏まえて、「名刺のアレコレ」について書いてみたいと思います。
(M社長、お忙しいことろ、すみませんでした! ご協力いただき、ありがとうございました!)
    

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日本の名刺

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海外で「名刺の紙」と言えば、アジア地域ではコート紙やマット紙にPP貼りしたもの。そしてヨーロッパでは、COC用紙や再生紙など、環境に配慮した用紙がおもに使用される傾向にあります。
日本はどうかと言うと、コート紙、マット紙に加え、ケント紙、キャスト紙、そしてファンシーペーパー(特殊紙)など、数多くの紙が使われ、非常にバラエティーに富んでいます。「和紙文化」や「紙への拘り」を持つ日本ならではの特徴と言えるかもしれません。
最近あまり見かけなくなりましたが、かつては、費用を掛け、自社のロゴを「型押し(浮き出し)」し、高級感のある特徴的な名刺を作る会社もありました。私も20数年前、お客様から、「型押し名刺」のご注文を数多くいただいておりました。
その時代の名刺は、「名刺でツケがきく」などと言ったほどで、それほどに1枚の名刺が企業やその人の存在を証明する、迫力のある価値あるものでもありました。(とは言っても、平社員ではツケききませんけどねぇ。笑)

  

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名刺の現状

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昨今の名刺は、シンプルなデザインと、カラフルで特徴的なデザインの2局化が進んでいて、圧倒的にカラーの両面刷りが多く、スミ文字一色の名刺は本当に少なくなっています。
大手企業ではデジタル印刷機の特徴を活かし、裏面のスペースを商品広告やキャンペーンの告知などに使ったりもしています。
また、葬祭用の名刺を別に作る企業もあります。(知ってました?)
例えば赤がコーポレートカラーの企業の場合は、葬祭用にロゴを黒やグレーに変えて作ったりするのです。

ここ数年で使用する紙にも変化が出てきています。
マット紙やケント紙の他に、アラベールやヴァンヌーボー、ルミネッセンスと言った、特殊紙を使用した名刺を作る方も増えています。
印刷の色使いも豊かになり、金や銀、クリアトナーを使って、個性的な名刺をご希望になるお客様も多くなっています。
特に夜の華やかなご商売の方々は、見た目の華やかさにこだわりをもって名刺を作る方が多く、ミラーコートやクリスパーコート、レーザーピーチ、スペシャリティーズ、ホログラムといったキラキラ、テカテカ感のある紙を使用することが多いという特徴もあります。

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「新聞折込チラシ」のアレコレ!

1週間分のチラシ
1週間分のチラシ

「雨ニモマケズ風ニモマケズ雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ……」とくれば、

そう、新聞!(あれ?)

今年の冬は、都心でも4年ぶりに積雪20cmを超える日があり、交通機関が乱れましたが、そんな日の朝でも、新聞はきちんとポストに入っていました。本当に有難いものです。

さて、新聞に必ず付いてくるもの……と言えば「チラシ」。
毎日折り込まれていますよね。新聞の記事は読まないけれどチラシだけは毎日見る、なんていう主婦もいたりして…?
私も、土曜日になると興味のあるチラシに目を通しています。家電や自動車、通販商品そしてホームセンターなどのチラシに自然と目が行ってしまいます。
旅行好きの方、マイホームの購入を考えている方、受験のお子様をお持ちの方など、人によって見るチラシの種類も違ってくるのではないでしょうか。
皆さんはどんなチラシに目が向きますか?

我が家ではかつては、チラシの片面無地はメモ書き用に、しっかり感のあるチラシは手作りのお菓子入れやゴミ入れ用に、そして紙質によっては濡れた靴の湿気取りなどにも使い、本来広告媒体であるチラシを、生活のあちこちで有効活用していました。
うまく再利用している方って割と多いですよね。
皆さんがどのように活用しているのか、一度訊いてみたいものです。
  

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「チラシ」の始まり

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そんな「チラシ」ですが、いったいいつごろ誕生したのでしょうか?
日本では、江戸時代の1683年とされています。
当時の日本橋越後屋呉服店(現在の三越百貨店)が開業する際に配布(当時は引き札「ひきふだ」と呼ばれていました)したものが始まりで、5万枚~8万枚が江戸市中に配布されたようです。
新聞にチラシが折り込まれるようになったのは、大正時代になってからだそうで、明治時代後期に誕生した「新聞販売店」の存在がチラシの増加に大きな役割を果たしたといわれています。

   

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どれくらいの枚数が入っているの?

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現在は、デジタル化が進み新聞折込チラシの量は減少傾向にありますが、いったい、どのくらいの枚数が毎日入っているのでしょうか?

下記は、我が家に入った、ある1週間のちらしの枚数と種類です。
(調べた週は、いつもの週よりも“若干少ないかな~”という印象でした)

  • 月曜日 4枚  通販商品4枚
  • 火曜日 10枚  スーパー・店舗4枚、通販商品2枚、ドラックストア1枚、学習塾2枚、旅行1枚
  • 水曜日 6枚  スーパー・店舗3枚、通販商品2枚、学習塾1枚  
  • 木曜日 8枚  スーパー・店舗4枚、学習塾3枚、リフォーム1枚
  • 金曜日 16枚  スーパー・店舗10枚、学習塾1枚、不動産2枚、老人ホーム1枚、フィットネス1枚、地域情報1枚
  • 土曜日 21枚  スーパー・店舗11枚、不動産1枚、車4枚、家電2枚、リフォーム2枚、地域情報1枚
  • 日曜日 17枚  求人4枚、学習塾1枚、旅行5枚、パチンコ2枚、リコール告知1枚、地域情報3枚、新聞休刊日告知1枚


1週間の合計 82枚という結果でした。

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密着!製紙工場でのオリジナル用紙抄造の1日!

世の中には数多くの紙が存在しますが、なかなかお客様のご希望にピッタリな紙が見つからないこともしばしば…。しかし諦めることなかれ! 実はお客様のご要望通りにオリジナル用紙を抄造することが出来るんです。ご存知でしたか?
この度、弊社のお客様がオリジナル用紙をご発注になり、その抄造の立ち合いで静岡県の製紙工場まで行って参りました。今日はその時の様子をレポートします!(昨年11月に行ってきました。ご報告が遅くなってしまいました。。。。)

◆東京駅から静岡県富士市へ出発

当日は朝の新幹線で新富士駅へ向かいました。博多行きの「のぞみ」を目にし、そのまま飛び乗ってしまいたくなる衝動をグッとおさえ、名古屋行きの「こだま」に乗り込みます。
富士地区周辺は富士山の湧水に恵まれ、各メーカーの製紙工場が数多く設立されています。
余談ですが、製紙工程において最も重要なのが水です。よって製紙工場は(富士地区以外でも)必ず安定して取水可能な地域に設立されています。
さて、新幹線の窓から外の風景を眺めていると、モクモクと白い煙を吐き出す煙突が何本も見えてきました。日本有数の製紙所、富士に到着です。

 

◆1日の流れについてランチミーティング

 新幹線を降りると晴れ渡る富士の青空。わざわざ遠方からお越しいただくお客様の足元を考えると、当日の天気は重要なファクターです。今日は立ち合い日和だな…と心の中でニヤリとしてしまうのは営業経験のある方には共感していただけますよね?(笑)。
 改札を出て現地工場の担当者の方と合流し、その場で挨拶を済ませます。挨拶を済ませた後はランチミーティングタイムです。当日の流れの打ち合わせから業界全体の話、それぞれの業種の話など実に多様な情報交換の場となります。このような場でのお話の内容が後々仕事のヒントになることも多く、本当に貴重な機会になります。いつなんどきでも情報収集は欠かせないのです。
そんな実り多いランチミーティングでしたが1つ惜しまれることが…。この日の朝は駿河湾のしらすが捕れなかった為、お客様に名産の生しらすを堪能していただくことができませんでした…。当地の生しらすは有名で、生しらす目当ての方が多く店にいらっしゃるので、漁が行われない日は「本日は生しらす漁は出漁しません」という専用の看板を店頭に用意するのだとか……。話によると今年はとにかくしらすが不漁で、現在冷凍されている物が無くなると世の中に出回らなくなるということです…。しらすがお好きな方はお気を付けください。
 

◆工場到着、抄造の立ち合い


昼食を済ませ工場へ到着するとお出迎えの看板を発見。

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スジ押し加工・型抜き(トムソン)加工 <職人の技シリーズ 第2弾>

スジ押し加工中
スジ押し加工中

2017年も残すところあと僅かとなりまた。この時期には、書店や文具屋さんで様々なクリスマスカードが並んでいます。クリスマスにちなんだイラストやメッセージが印刷されていたり、また、箔押しやクリスマススリーの形に型抜きされたものもよく目にします。
皆さんはこのクリスマスカードがどのように作られているかご存知ですか?
今回は、紙に「スジ押し」をしたり、「型抜き」をする工程を紹介しようと思います。

 

スジ押し加工とは?


紙には繊維の目方向があり、クリスマスカードなどの厚い紙を折る場合、目方向に沿って折らないと繊維が邪魔をして綺麗に折れません。目方向とは逆なのに無理して折ると、紙の表面が割れてしまうこともあります。そんな時にはスジ押し加工! 「スジ押し」をすることで簡単・綺麗に紙を折ることができます。
スジ押し加工のやり方は―加工する機械により異なりますが―原理としては凹凸の型に紙を押しつけることで紙に溝をつくります。(図参照) その結果、綺麗に折ることができるのです。

 

実際の作業現場をご案内します!


折角ですので実際の作業現場をご案内致します。
それではここでQuestionです! この道具は一体何に使うのでしょうか?

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富士山を望む3工場、見学レポート! (東京製紙・富士共和製紙・サンフジ)

 

朝夕冷え込み、日に日に秋が深まる11月。
去る15・16日の二日間で静岡県にある東京製紙株式会社・富士共和製紙株式会社・株式会社サンフジ(富士共和製紙関連会社)の3工場を見学する機会がありましたので、今日はその時の模様をレポートいたします。

■東京製紙株式会社

初日はまず東京製紙株式会社様の工場からスタートしました。
東京製紙様は富士宮市にあり、板紙の製造・コップ原紙及び印刷等の2次加工を手掛けるメーカーです。今回は丸網多筒抄紙機とウェットラミネーターを中心に見せて頂きました。
丸網式とは抄槽の中で丸網を回転させ、丸網上に生じた紙料層をフェルト上に吸い付けるもので、その丸網を多数並べたものが多筒抄紙機です。並べたそれぞれの紙料層を順次吸い付けることによって多層に抄き合せたものが板紙のベースになります。
次工程では2本のロールで紙中の水分を搾り取りドライヤーパート(熱ロールに紙を圧着乾燥させる)・キャレンダー(紙ムケ・ケバ立ちを防ぐため紙の表面に澱粉等を塗り平滑・光沢を出すパート)を通ったのちに巻き取られます。
次にウェットラミネーターです。何を作る機械かというと、化粧品のパッケージやカードなどで見かけるキラキラと輝く“アレ”です。先程の抄紙機で作られた原紙とアルミフィルムを貼り付け、グラビアで着色し、種類によってはエンボスをかけて巻き取り、断裁まで施すことができる機械です。
ここでは実際に銀色の紙に自分で着色して金色を作り、表面にエンボスをかけることを体験することが出来ました。
東京製紙様は紙単体は1割程度で、2次加工等を施した高付加価値商品が主力とのことです。
また紙コップ等のコップ原紙、ヨーグルトなどを入れるために耐酸性を持たせた商品、牛乳やお酒のパック等も得意分野とのことです。

 

■富士共和製紙株式会社

翌日は富士共和製紙様と関連会社サンフジ様を見学しました。
富士共和製紙様は富士市に位置し、丸網多筒式の抄紙機3台を保有し多品種小ロットに対応している製紙会社です。
抄紙機の話しはすでに上の項で触れましたので省きますが、ここではキャストコーターを見せて頂きました。他のメーカーでは見る機会がありませんが、こちらではちょうどキャスト仕上げをしているタイミングでしたので、目の前で見ることが出来ました。
キャストコート紙とは用紙に塗料を塗布した後、キャストドラムで加熱乾燥させたものです。
またここでは、NBKP(針葉樹)・LBKP(広葉樹)・未晒しのUKP等のパルプシートを、実際に手にして破ったりすることによって、針葉樹と広葉樹の強度等の違いを体験することが出来ました。
原料の在庫場所にものすごく大量の折りヅルが置いてありました。不思議に思って「どうするんですか?」と訊いてみると、仙台の七夕祭りで使用した折りヅルを混抄して紙を作るとのことでした。
富士共和製紙様は混抄紙も手掛けていらっしゃるので、今までに紙に混ぜた実績のあるものを伺ったところ、ヤシパルプ/カカオを粉砕したもの/ビールの搾りカス/小豆の皮/ピーナッツの皮など多種にわたっており、驚いたのは回収された古い紙幣をシュレッダーしたものを混抄したこともあるとのことでした。
さまざまなものが混抄できますが、工程上水に浮いてしまうものは不可とのことでした。
また、多品種の製品の中でコースター用紙は順調に伸びている商品とのことです。

見学の中で驚いたのが、仕上がった紙を検品・梱包する作業が人力で行われていて、且つ全員が女性だったということ。それはもう見入ってしまうほど手際よく鮮やかな作業でした。仕事柄私も梱包経験は何度もあり、梱包の仕上り具合について目は肥えている方だと自負していますが、その私から見て、彼女たちの行う梱包の仕上がりの素晴らしさは特筆に値するものでした。
聞いたところによると、元々は自動包装機を保有していたのですが、多品種・多寸法にわたる商品構成のため、商品が変わるたびに機械の設定を変更するのに時間がかかってしまい、結果、途中から人力に変更したとのことです。その方が効率的なのだとか。

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2018年年賀状 タメになる”まめ知識”  年明けに出す年賀状には気を付けて! その②(2/2)

さて今日は「その②」となります。
年賀状を出す人にとっては、とっても大事なインフォメーションになりますので、注意深くお読みください!

■年賀はがきの料金

今年の6月1日から「はがき」の郵便料金が値上がりしました。52円から62円になったのです。一時期、ニュースや新聞で大きく報じられていましたので、ご存じの方も多いと思います。今、郵便局に通常の郵便はがきを買いにいくと「62円×枚数」の代金を支払うことになります。
――なのに、
すでに年賀はがきを買いに行かれた方。びっくりしませんでしたか? 1枚52円で購入できましたよね。「え?はがきは62円になったんじゃなかったの?」と驚いた方、いらっしゃったんじゃないですか。
そうなんです。「年賀はがき」に限っては今年は52円据え置きなんです。料金変更初年度ということで、年賀はがきに関しては日本郵便のうれしい気配りがあったんですね~。
   

……なのですが、要注意!!
ここに一つ罠が!

「えー、郵便料金の改定により、通常はがきの料金を52円から62円に変更いたしました。
なお、年賀はがきについては、12月15日から翌年1月7日までの間に限り、これまでと同様に52円で差し出すことができます」

……ということは、その期間外で、12月14日までに年賀はがきを出したり、1月8日以降に投函するとどうなるの?
結論は、ふつうのはがきと同じ扱いとなるため、「62円必要」=「10円切手をプラスしないと届かない」のです! 正確には、投函はできてしまうので、以下の対応が取られることになります。(年賀状の場合は「差出人の住所・名前が書かれている」ことが一般的ですので、その場合に絞ってお話しします)

 (A)郵便料金が不足していることを発見したのが「差出側の郵便局で、且つその郵便物を差し戻す先が

    当該郵便局の配達管内である場合」は差出人に郵便物が返送されます。

   (つまり、差出人が差額の切手を付加して出し直すことができます)
 (B)郵便料金が不足していることを発見したのが「差出側の郵便局だが、その郵便物を差し戻す先が

    当該郵便局の配達管内でない場合」は、届け先に郵便物が配達され、届け先(受取人)に差額10円

    が請求されます。
 (C)郵便料金が不足していることに差出側の郵便局が気付かず、届け先に郵便物が配達された場合は、

    届け先(受取人)に差額10円が請求されます。

つまり、企業の年賀状の場合は、年賀状に記載されている住所の管轄郵便局(郵便ポスト)に郵便はがきを出した場合で、且つその局で郵便料金不足を発見してくれた場合にのみ、当該はがきが手許に戻ってくることになります。それ以外は届け先に配達されてしまいます。
「通勤途中で自宅近くのポストに投函した」とか「本社の住所が記載されている年賀状を、別の場所にある営業所から出した」というのは、仮に差出側の郵便局が料金不足に気がついても、そのはがきは戻ってきません。

「はがきが戻ってこない」=「届け先(受取人)に差額10円が請求される」となりますので、年始から相手先様に失礼なことになってしまいます。。。。

「早く準備できたので12月14日前に出してしまおう」とか、年が明けて「あ、この人には年賀状出してなかった。。。今から出そう!と思って投函するのが1月8日以降になった」という場合には、本来”そのまま使えた”はがきが、一変して、”料金足らず”のはがきに突然変わってしまいますので、充分にお気をつけください。
特に今年の年始は、祝日明けの1月9日から仕事が本格始動という人も多いでしょうから、年明けに年賀状を出すときには「+10円切手」を貼って出すことを忘れずに!

ちなみに、10円切手は日本の国鳥「トキ」のデザインです。10円分として「エゾユキウサギ(2円)」+「シマリス(3円)」+「ニホンザル(5円)」を組み合わせるというのもかわいいですね。

【年賀状の郵便料金】詳しくはこちら
http://www.post.japanpost.jp/service/fee_change/nenga2018/

年賀状の歴史を知ると「遠くに住んでいる人」の消息をたずねてみたくなりませんか?
手紙ではなかなかタイミングもなく、出しづらいという方も、今年は年賀状で一言添えて送ってみてはいかがでしょうか。

   

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2018年年賀状 タメになる”まめ知識”  年明けに出す年賀状には気を付けて! その①(1/2)

今年も早いものでもう12月。クリスマスがやってくる~♪!
季節を先取りした商戦の影響もあって、11月に入ると街にはクリスマスムードが漂い始めますが、本番はこれからですね!
そして、クリスマスが終われば間髪入れずに、もういくつ寝るとお正月♪
こどもの時は冬休みにイベント続きで楽しかったな~。

――なのに、オトナになると、12月は「師走」と言う通り、バタバタとやることが盛りだくさん……。例えば、会社にお勤めの方ですと、年末年始のあいさつ回り。日頃からお世話になっている方や、新しく関係ができた方、久々にご挨拶する方など、色々な関係先に足を運んだり、宴会をしたり…と、することも増える時期ですよね。

同時に、この時期、「年賀状も書かなきゃ!」というプレッシャーを感じる方も多いのでは?
私の中では、クリスマス周辺の時期=「元旦に年賀状を届けるリミット」というスケジュールが染みついていて、クリスマス時期になると半分は年賀状でそわそわしたりします。

メールなどで簡易的に済ませるという方も増える中、ビジネスでは意外とまだまだ年賀状を継続されている方もたくさんいらっしゃるように感じます。会社のイメージをPRしたり、1年の変化をお伝えしたり、一言添えて1年の感謝を伝えたり。
見方を変えれば、デジタル社会になって”書状のやりとり”が少なくなっているからこそ、年賀状を送ることでPRになるのかもしれません。やはり、年賀状は届いたら絶対に見ますし、「お年玉くじ」がついていれば、保管して当選番号発表の時にもう1回見ますよね。なかなか当たらなくても、ワクワク探すのが楽しい。何だか心くすぐられますよね! 
さてそんな年賀状の「お年玉」制度。これって、いつからあるんでしょ? 

実は私、仕事としてお客様からの年賀状製作のご依頼がよくあります。本文の印刷は勿論のこと、宛名の印刷やデザインもお請けしています。ですので、もう11月になると毎日が年賀状。(笑) で、そんなに触れている年賀状なので、気がついたら年賀状にある程度詳しくなっていたり、思いがけず興味がわいたり……。ということで、今日は、年賀状のアレコレと気になることなど”まめ知識”を皆様にご紹介したいと思います。
  

■年賀状(日本郵便製)の「お年玉」

その始まりは、1949(昭和24)年。初めてお年玉くじ付き郵便はがきが発行されました。
発案はなんと郵便局員ではなく、実業家の林さん。ポスターや企画を自分で練り、持ち込んでプレゼンしたら、見事採用! なぜこんなことを? この時、日本は戦後新しく歩み始めた頃。「年賀状が戦前のように復活すれば、お互いの消息もわかり、うちひしがれた気分から立ち直るきっかけともなる」(『年賀状博物館』サイトより引用)と考え、“くじのお年玉をつけ、さらに寄付金を加えれば社会福祉にもなる”と思い立ったそう。自ら見本のはがきやポスターまで作って持ち込んだのだとか。この素晴らしいこころざし、行動力、見習いたいです!

ちなみに、初回のお年玉くじの賞品って何だったのでしょうか。
初回は、こんなものが賞品になっていました。
  特等:ミシン
  1等:純毛洋服地
  2等:学童用グローブ
  3等:学童用こうもり傘
特等のミシンと1等の洋服の生地が当たれば「洋服が作れる」。洋服を家庭で作ることは、当時の夢のひとつだったようです。こどもの賞品が続くのは、ベビーブームだったからとか。
1965年以降はポータブルテレビや8ミリ撮影機・映写機セットなどが賞品に並ふようになります。経済の成長や文化の変容を感じますね。

では、来年(2018年)もらえる賞品は?
  1等:セレクトギフト(12万円相当/1万点以上の商品・旅行・体験プラン等からの選択)

      又は現金10万円   
  2等:ふるさと小包など
  3等:お年玉切手シート
こんなラインナップです。現代の多様化が進む社会を反映しての「セレクトギフト」でしょうか。選ぶのも楽しそうですね。一方で「現金も可」というのはびっくり! ちなみに3等の「お年玉切手シート」は、第1回の時からあるのだとか。毎年集めている方も多いのでは?
さて、もっと詳しく年賀状ことが知りたい!と思った方、『年賀状博物館』というWebサイト(http://www.nengahaku.jp/)がありますので、アクセスしてみてください。

   

■年賀はがきのカタチ

年賀状を作るときは、年賀はがき(日本郵便製)を買って家で書いたり印刷したりする方がほとんどだと思います。
こんな形の年賀はがきがあること、知ってましたか?(右の画像)

間違い? いいえ、“4面付”の年賀はがきです。家庭ではお目にかからないですが、ちゃんとお年玉もついている正式な日本郵便製の年賀はがきです。もちろん市販されています。
大量に刷るとき、つまり業者さんが業務用の印刷機(オフセット方式)でつくるときはこれを使って一気に刷り、あとで断ち落としてハガキサイズにするのです。
   

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オススメの「あぶらとり紙」 女子必見ですよ!

みなさーん!
(脂)ノってますかーーー!

男女を問わず、気候に関係なく、お肌のテカリは出るものです。そんなテカリの原因である皮脂。これを取るのによくお世話になるのが「あぶらとり紙」。

私はお化粧を直すときに必ずと言っていいほど使っています。皮脂が乗っかっていると上手く直せないんですよね。(あっ、誤解ないように申し上げておきますが、私は女子です!)
最近、手元のあぶらとり紙がなくなり、薬局で新しく買い換えたのですが、いざ化粧直しをば!と思いおニューのものを使ってみると、なんだかいつもと違う? 皮脂が取れすぎてしまって、ちょっとカサカサした仕上がりになってしまった…ということがありました。

そこで再び薬局に赴き良さそうなものを買って試してみると、すこぶる調子がいい! 使うあぶらとり紙によってこんなにも変わるのか!と感心しました。

この違いを是非とも皆様と共有したい!ということで、春夏秋冬、365日あぶらとり紙にお世話になっている私の、私による、皆様のための”おすすめのあぶらとり紙”を勝手にご紹介します!

今回は、商品名は伏せ、6つのあぶらとり紙とティッシュを実際に使ってみたその比較結果を、肌質別に「こんなタイプがオススメ!」という形で進めさせていただきます。
ちなみに実験は、母、姉、私の3人で行いました。
実は私達、このならび順で、乾燥肌、脂性肌、混合肌となんとまぁ綺麗に分かれていたんです(笑)
「紙:フィルム」の種類数はお店の品揃えの比率と同じ4:2で揃えてみました。
  

今回試した製品(いかがわしいものではありません!笑)
今回試した製品(いかがわしいものではありません!笑)

まず、薬局やコンビニなどでよく市販されているのは、大きく分けて3つの種類。紙タイプとフィルムタイプ、そしてティッシュです。
ティッシュも紙じゃん!と言いたいところですが、あぶらとり紙用に製品としてつくられているもの/そうではないもの、で分けてみました。

さぁ、ここで大きな違いとなるのが、吸収力。
吸収力の差としては
フィルム>ティッシュ>紙
だと思います。

フィルムタイプはプラスチックを原料とし、最近では皮脂だけでなく汗もグングン吸収してしまうほど吸収力のあるものも出ているようです。

ティッシュは今回、デリケートなお肌に優しい保湿ティッシュで実験してみました。
皮脂をオフしたあとそのまま鼻もかめちゃうのが良いところですよね! ――あれ?……ズボラがバレてしまうので大人しくします……。

そしてスタンダードな紙タイプ。この紙タイプの中にも種類があるんです。そこにはあぶらとり紙の歴史(ルーツ)が関わっていたなんて…、今回初めて知りました。それは後ほどご紹介します。

  

■「肌質別おすすめのあぶらとり紙」発表!

お待たせいたしました、それでは発表いたします!
私的、肌質別おすすめのあぶらとり紙の選び方!

▶脂性肌の方
 この方はやはり、フィルムタイプがオススメだと思います!
表面の皮脂を取っただけではすぐに化粧がよれてしまいますし、しっかり取れた!と思っても意外に取れていません。グングン吸収出来るフィルムタイプで拭き取った方が肌の表面はちょうど良い感じになっているのかな、という印象でした。ただ、皮脂の取り過ぎは禁物なので、使うのは一枚までに留めておいた方が良いと思います。

▶乾燥肌の方
 このタイプの方は基本的に皮脂は少なめなので、あぶらとり紙は必要ないように思います。ただ、化粧を直す前にはおでこや鼻の辺りはやはり気になるもの。そんな時は紙タイプのもので目に見えるテカリだけをさっと抑えるくらいで十分です。拭き取った紙を見てもあまり取れていないように見えますが、直接指で触ってみると、ちょうどよくサラッとしているのです。

▶混合肌
 私もこのタイプなのですが、口周りや目元は乾燥しているのに、鼻やおでこは結構テカっている…そんな面倒な肌質のあなたは、紙タイプ。乾燥肌と拭き取る場所は大体同じですが、皮脂の量は意外に多い。ですが、乾燥性のあるお肌にフィルムタイプのあぶらとり紙はちょっと刺激が強い…紙タイプで皮脂の上から押し当てて拭き取るくらいが調度良いなと感じました。

以上、発表を終わります!

ティッシュは残念ながら”おすすめ”としてはピックアップされませんでした。
というのも、吸収力はたしかに良いのですが、一緒にお化粧も取れてしまうため、お化粧直しにはあまり向いていないと感じました。
汗もふきふき、しっかり脂分を取りたい方にはピッタリなのではないでしょうか!
   

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紙はこうやって造る 【日本製紙(株)北海道工場白老事業所の紹介】

白老事業所の近くを流れる敷生川
白老事業所の近くを流れる敷生川

皆さん、こんにちは。
先日、日本製紙株式会社北海道工場白老事業所を見学する機会がありましたので、今回はその工場見学のことと、併せて紙の製造工程についてご紹介したいと思います。
このサイトは、紙の卸商が運営しているサイトですので、たまには紙の直球ネタ”製紙”のお話も良いかと……。

 東京も気がつけば紅葉の季節になりましたが、工場見学をした10月中旬の北の大地は既に里にも紅葉が降りてきていて、そろそろ秋も終わりかなという気候でした。
 日本製紙株式会社様(以下日本製紙)は道内に勇払・白老・旭川・釧路の4工場を擁しており、平成22年4月より勇払・白老・旭川の3工場を北海道工場として統合し、勇払事業所・白老事業所・旭川事業所とそれぞれ改称されました。
 今回訪問した白老事業所は、昭和34年6月大昭和製紙白老工場として創立。平成15年4月日本製紙と合併して日本製紙白老工場に改称し、平成22年4月からは日本製紙株式会社北海道工場白老事業所として、大型抄紙機3台と塗工機1台を保有し、印刷用紙の東日本の主力工場として今日に至っています。

 北海道の工場らしく、敷地面積は89万8,000坪(東京ドーム53個分)という広大な敷地を有し、チップからパルプ(LBKP)を製造(日産1,000トン)し、そこから出た黒液を発電4ボイラーの燃料として再利用し、自家発電比率99%(昼間)と環境にも優しい工場となっています。工場内には、関係会社の方を含めると500名の方が働いているとのことです。
 ちなみに、チップからパルプを製造するには歩留まりが50%ということですから、毎日2,000トンのチップを使っていることになります。その内の85%が輸入材で近くの室蘭港から、残りの15%は国内材で道内から搬入されていて、毎日約100台分の大型トラックが動いているそうです。

   

さてここからは、紙の製造工程について順に説明いたします。

■パルプ工程
紙の原料になるパルプは、木材チップ(木をチップ状に砕いたもの)から作られます。

 

①原料チップを蒸解釜(じょうかいがま)と呼ばれるお釜の中で薬品と一緒に蒸し、木材の中から繊維分(パルプ)と黒液(不要物:黒液はボイラーの燃料になります)を取り出します(この時点では繊維も木材色をしています。そのまま紙にすると茶封筒のような紙になります)。


②次に漂白をします。昔は塩素を使って漂白していましたが、公害問題などもあり、現在では酸素を使って漂白しています。ここで、やっと白いパルプになります。

 

■抄紙工程(しょうし:紙を抄くことを抄紙といいます。明治時代は製紙会社を抄紙会社とも呼んでいました)
紙を作る工程は、簡単に言うと水とパルプが混ざった原料を脱水・乾燥させていく工程です。


①ワイヤーパート(網で抄く工程)
パルプを水に溶かし(大量の水が必要になるので、製紙工場は川の近くに設置されています)ワイヤーでできた網の上に流していきます。ここで、ドロドロの原料からびちゃびちゃなシートになります。
白老事業所にある3台の抄紙機のうち、8号機は5,560mm幅、9号10号機は7,300mm幅もあります。

②プレスパート
びちゃびちゃのシートをローラーで挟み、圧力をかけて水を絞ります(戦後、三種の神器と呼ばれたころの洗濯機の脱水ローラーと同じ原理です。わからない方は昭和時代の博物館かネットで検索してね・・・)。ここで、濡れたシートになります。

③ドライパート
蒸気(黒液を燃やしたボイラーから供給されています)で熱したローラーの間に、濡れたシートを通し乾燥させます。やっと紙の原型ができました。
次に、インキや水が滲まないようにする薬品(サイズ剤)を塗布し、また乾燥させます。

④キャレンダーパート
紙の表面を均一にさせるため、つるつるな表面のローラー(キャレンダー)に通し、紙の表面を整えます。ここで紙になりました。

 

■ワインダー工程
7,300mmの原反(ジャンボロールとも呼びます)を指定の規格幅にカットします。
巻取り製品はこの工程で終了です。

■カッター工程
平判の製品は、ワインダー工程を経た巻取り製品から流れ方向にカットし、指定包装枚数で包装し終えたら、平版製品の完成です。

   

白老事業所の主要生産品目:
 ・白老町の名を冠した上質紙の「しらおい」
 ・A2グロスコートの「オーロラコート」
 ・A2ダルコートの「ユーライト」・「ユーライトDRYアルファ」
などとなります。
(平成30年5月以降「ユーライトDRYアルファ」は、白老事業所のみの生産になるということです)

日本製紙の主力印刷用紙を、9号10号機で生産しています。
この2つのマシンは建屋に並列で設置してあり、スペックもほぼ同等で2台合わせて日産約1,100トンの紙を抄ける能力があります。
壁をはさんだ9号機のすぐ隣には32号塗工機が設置してあり、9号マシンは32号塗工機用の原紙を生産しています。

この様に抄紙機と塗工機が別々に設置されている形態を「オフコーターマシン」と呼びます。(ちなみに抄紙機と塗工機が連続して1台のマシンとなっているものを「オンコーターマシン」と呼んでいます)。
オンコーターマシンの方がコート紙を作るには大変生産効率が良いマシンですが、抄紙パート、塗工パートのどちらかに不具合が出た場合や、白老事業所のように上質紙とコート紙を併抄している場合は、オフコーターマシンのメリットが発揮されます。

出来上がった製品は、苫小牧港から関東地方などの消費地へ出荷されます。

工場の近くに敷生川(しきうかわ)が流れており、取水堰を設けて取水しています。
この川は、鮭が遡上してくるそうですが川から鮭は捕ってはいけないそうです。
見学した日も遡上風景が見られました。(海で釣る分はOKだそうです)
周辺は豊かな自然に恵まれているため、古くはアイヌの人々の里もあったとのことです。
シラオイという地名もアイヌ語が語源だとのことです。

「しらおい」(上質紙)なんて、毎日のように取り扱っているわけですが、やっぱりそれが造られている工場を見て、その土地にふれると、取り扱う際にちょっと想いが入るというか…、刹那に風景がよぎるというか……。うん、工場を見学できてよかったです!

白老事業所で作られた製品も、勿論、弊社で取扱っています。是非ご用命ください。
  
  

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神社仏閣 紙の品々

9月。「まだまだ暑いな~」と汗をぬぐう日があるかと思うと、「今日は長袖を着ていこう」と涼しさを肌で感じる日もあったり……。
そんな日本の9月は、秋祭りがあちこちで催される月でもあります。
さて、秋祭りと言えば、何を連想しますか?

――そう神社・仏閣!

と言うことで、今日のテーマはずばり「神社・仏閣」。しかも『紙らぼ』の記事ですから、「神社仏閣で見られる紙素材の用品」にスポットを当ててみたいと思います。

まずは、紙のお話の前に神社とお寺の違いについて少し触れておきます。
こんなことをお訊きするとちょっと失礼かも知れないのですが……、
「皆様、神社とお寺の違いはご存知ですか?」

「さすがに知ってるよ~」との声が聞こえてきそうですが、ちょっとおさらいをしておきますね。
大雑把に言えば、神道であり神様を祀り祭事を行うのが神社。仏像が安置され、仏教を説く施設がお寺。
参拝の仕方にも違いがありますね。
神社→お賽銭を入れ鈴を1〜3回カラカラ。二礼二拍手一礼。柏手のあとにお祈りで、最後にまた一礼です。「あれ?何回礼をするんだっけ?」と、ちょっと迷ったりしませんか?(笑)
お寺→お賽銭をいれ、両手を合わせてお祈り。時々見かけますが、柏手(かしわで)は絶対NGですからね!パンパンしちゃダメ!
これを押さえておけばひとまずOKでしょう。

さて、いよいよ本題の「神社仏閣で見られる紙素材の用品」のお話に入りますね。
私の思うままに紹介しますが、お許しください。

 

ひとつめは、「紙垂」


これは”しで”と読みまして、鳥居にかかっているこれ

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災害時のバッテリー、えっ? 紙製なの?!

協和エクシオさんの社屋内に置かれていたものを許可をいただいて撮影
協和エクシオさんの社屋内に置かれていたものを許可をいただいて撮影

「9月1日」と言えば……、

防災の日。

この日に避難訓練を行う学校や企業が多いと聞きます。
94年前の1923年9月1日。関東大震災が起きました。
それにちなんで1960年に内閣の閣議了解により制定されたのがこの「防災の日」です。

震災というと今では「3.11」のイメージが強烈ですが、のみならず、とにかく日本は自然災害が多い(>_<)
国土面積を考えると、この自然災害の多さは、悲しいかな日本の特徴のひとつと言っていいでしょう。

さて、そんな自然災害大国・日本。
実際に災害が起きたら何が必要となるでしょうか?
水、食料は勿論ですが、現代社会に生きる私たちにとっては「電源の確保」も重要事項のひとつです。
電源があって通信環境があれば、災害の現場として様々な対応が取れるのです。

そんな災害現場を想定して開発されたのが、協和エクシオさんの「可搬型バックアップ電源システム【サバイバル電源】」。
どこへでも持っていけるハイスペック電源で、LTE/Wi-Fi/有線インターネットの接続にも対応しているという高機能なバッテリーです。(詳しくは、協和エクシオさんのサイトを御覧ください) 

 

さて…、とここまで書いてきて、
「ちょっとちょっと、紙とどう関係してるのよ?」
との声が聞こえてきそうですが……、

してるんです!
実は!

上に掲載した画像の『サバイバル電源』。
わかります?
これ、実は紙でできているんです。
実機と同じ寸法で製作し、実機の画像を全面に印刷してあります。

 

元は1パーツで、こんな状態です。

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紙屋さんの秘密道具たち「紙の厚さ」編

”紙”というと、小さいころから馴染みがあって、「生活のいたるところに在る」イメージですが、”紙屋”というと、「…あれ?知らない。見たことない!」という方がほとんどではないでしょうか?

■「紙屋さん」ってどんな仕事をしてるの?

紙屋に入社して早3年ちょっと。(”新人”をちょっぴり抜けた感じ??)
その間に「紙屋の仕事ってこんなことをするんだ!」という驚きがたくさんありました。かなりニッチなお話ですが、面白がって聞いていただけたら幸いです!
「紙屋さん」と言ってもいろいろなお仕事がありますが、今回は弊社シオザワのお仕事の中の一部をご紹介します。


シオザワの「紙屋さん」のお仕事は、ものすごくシンプルにまとめると、
 ①印刷屋さんや紙を使うお客様からご注文をいただく
 ②紙を仕入れてお届けする
この2つ。
特に、①の「ご注文をいただく」という過程がポイントで、ここで「紙屋」の知識が発揮されます。
ご注文をいただく前に、「こんな紙ってある?」、「銘柄はわからないけど、これと同じ紙がほしい」、「この紙みたいな紙ってない?」、こんなご相談がお客様から寄せられます。
それにお応えするのが、紙屋の仕事。いろんな質問に答えるため、いろんな「秘密道具」を使って「紙調べ」をするのです。

 

■「紙調べ」

たとえばこんな質問がお客様から……
「この紙ってなんていう紙?」
そう言われてお客様から手渡される銘柄不明の紙片!
いただいた紙を頼りに、どのメーカーのどの紙か?を推理していきます。(この「紙調べ」をして、やっとお見積り依頼やご注文をいただけるのです!)
どの紙かを推理するにあたって、どんな要素を調べていくかというと、
 ①紙の厚さは?
 ②紙の色は?(白い紙の場合、紙の白さは?)
 ③紙の模様は?地合いは?
 ④紙の加工(塗工)は?
などなど、いろんなポイントがあります。

 

■紙の厚み

今回は、”紙の厚みを知る”秘密道具をご紹介します。
皆さん、生活の中で、紙の厚さって、意識したことありますか?
私も紙屋に入るまでは、「厚いなー」「薄いなー」「すごく厚いなー」くらいの意識しかありませんでした。でも、いざ紙屋に入ってみると、「これは90kg」「これは135kg」なんて言葉があちころちで飛び交っているのに直面します。(紙の厚みの単位について、詳しく知りたい方はまたほかの機会に!)
長く紙屋をやっているベテランさんは、紙を見て、触って、大体わかってしまうようです。ナント、その昔の大ベテランの営業さんでは、相手先さんが電話口で「紙をはじいた音」を聞いただけで紙の厚みがわかってしまったとか! 紙の厚さを”聞き分ける”なんて、まるで職人芸ですね。
まぁ、そんな神業を持つ紙屋さんはともかくとして、基本は、紙厚(かみあつ)を測るときは「ゲージ」という秘密道具を使って測ります。そして、実際の「見本帳」の紙厚と比べて特定していきます。
「ゲージ」は、見た目は手のひらサイズの昔ながらのはかりのようなもの。機能としては、「ノギス」をご存知の方は、その紙版といったところでしょうか。
レバーを動かすと、カシャカシャと音がし、杵つきのようなところで紙を挟めるようになっています。

 

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知ってる? 名刺の厚さ

ダイヤルゲージ
ダイヤルゲージ

入社ン十年、そこそこ長い間、「紙」という素材に携わってきましたが、最近、名刺に使う紙についてのお問い合わせが多くなっているような気がします。
オンデマンド印刷機(プロダクションプリンター等)が、これまで紙との係わりが少なかった企業や個人にも広く導入されていることが要因の一つかもしれません。

その中でも、特に紙の「厚さ」についての質問が少なくありません。
お問い合わせに対しては、これまでの実績や経験をもとにお答えをしておりましたが、日頃いただいている各社様の名刺が、実際どのくらいの厚さなのかを確認したことがなかったので、今回、まとめて測定してみることにしました。

測る! どうやって?
あるのです。手軽に紙の厚さを測る機器が。
今回は、当社で良く使われているダイヤル式の機器で測ることにしました。

ちなみに、オフィス内で良く見かける素材を測ってみると
・コピー用紙が0.09mm、年賀はがきが0.23mm、
Campusノートの表紙が0.27mm、日経新聞が0.06mm。
新聞紙は、薄くてもコシがあり丈夫です。大きな新聞を細長く折ることで、狭い
電車の中でも気軽に読むことができるのは、その特徴のお陰かもしれません。
(車内で新聞を読んでいる人が、めっきり少なってしまいましたが・・・)

名刺はこれまでいただいた中から、無作為に選びました。
その数、60枚。
製紙、複写機、印刷、鉄道、生保、銀行、テレビ局、通信、コンサルタント、病院、ガス、スポーツ関係など、業種は様々です。

さてさて、結果は!・・・
測った名刺の中で、最も薄かった名刺が 0.18mm、で6社、
対して、最も厚かった名刺が0.31mmで、2社、でした。
それぞれの厚さの枚数は、下記の通りです。
紙の規格(米坪)としては、186.1g/㎡ ~ 256.0g/㎡といったところです。

 

名刺の厚さ(60枚無作為抽出したもの)
名刺の厚さ(60枚無作為抽出したもの)
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紙と歴史のよもやま話-最終回「幾つかの思い出」

 それから思い出すのは公害問題です。今から五十年程前の事ですが製紙工場から出る排水の問題が静岡県の「田子の浦ヘドロ事件」と呼ばれる大公害問題になったのです。未処理の排水が田子の浦湾に垂れ流され海は汚れ悪臭が漂いヘドロで魚は住めなくなり、空気も汚く全く酷い有様でした。日本全体が公害に対して鈍感だった時代です。この頃から製紙業は公害企業というイメージが出来てしまい未だに払拭されていません。
 今日の製紙工場の排水処理設備は充分なものがあり、煙突から出る煙(ほとんどが水蒸気)に臭いは無く相当な対策を施しています。生産上の公害対策ばかりでなく製品そのものに対しても環境が意識されています。
 紙一トンに対し材木十トンが必要と言われ森林を破壊しているかのような話も多かったように思いますが、原料の大半は植林木と廃材(主に住宅建設の)、それに古紙です。今では製紙産業は環境対策の優等生と言ってもいいでしょう。

 

古紙の偽装、バブル……激変する世の中

 思い出すついでにあまり良くない出来事が浮かんで来ました。古紙の配合率を偽装した事件です。販売しながらも「こんなに古紙(特に上白)があるわけない」と思っていました。配合率から見て品質が良すぎました。古紙の入った紙を使えば全て善という風潮、古紙配合率は多いほど良いという誤解、古紙百%品を使用する事の強制、古紙の入っていないものへの忌避感情などが背景にあったのだろうと思います。ご存知の通り日本は古紙回収率と古紙利用率は世界のトップレベルです。植林にも熱心です。ゴミゼロ運動にも力を入れています。
 年号が平成になる少し前、世の中はバブル景気で沸き返っていました。贅沢品が飛ぶように売れ絶好調でした。石油パニックの時代のような紙の買占めがあったわけではありません。ただ土地の買い占めは異常でした。土地転がしや株で儲けた人が多く出ました。忙しくて人手が足りません。アルバイトを採用するのも大変で、就職してくれたら車を進呈すると言い出す企業まで現れました。あの頃は確かに忙しく昨日印刷したものが今日は刷り直しという事がしばしばありました。皆が儲かっているから気にしない気にしない。製本途中なのにもう再版が決まったりして、世の中全て思うように行く気分でした。
 そう言えば「○○PANしゃぶしゃぶ」なるものがあって官僚の接待に使われる事件がありました。あの頃の日本はどうかしていたのです。金儲けと贅沢に味を占めてしまいました。
 しかしバブルが弾け世の中は激変します。土地、株、会員権等の値段が暴落しました。借金は高金利のまま高止まり。人手不足は人余りに。これを乗り切るのに相当の時間がかかりました。「こんな事ならあの頃もう少しいい思いをしておけばよかったなあ」と今は思います。

 

紙の歴史の中に答えが

 厳しい時代に突入してから長い時間が経ちましたが、本当に厳しくなったのは最近の事です。戦後減ったことが無い紙の消費量が明らかに減り始めました。
 紙の需要は減ってはいますが当分の間は必要不可欠なものとして使い続けられるでしょう。ではどのくらい減るかは想像もつきません。半分くらいになるのでしょうか。四十年くらい前が今の半分です。人口も四十年後には三分の二くらいになると予想されていますから、半分になっても不思議ではありません。実際問題そんな先の事は考えられませんが、今からどう対処するか行動に移さないといけない時代です。紙の歴史の中に答えがあるかもしれません。
 面白いと思った事だけを書きましたのであまり役に立つ事は無かったかと思いますが、最後までお付き合い下さいましてありがとうございました。

 

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紙と歴史のよもやま話-15「戦後にあったあれこれ」

 ようやく統制撤廃が実現し完全自由化への動きの中、製紙業界に於いて大事件が発生しました。1949年(昭24)GHQによって財閥解体が行われ王子製紙の分割が余儀なくされたのです。王子製紙は財閥とは違いましたが圧倒的なシェアーがあったため分割が命令されたのでした。苫小牧製紙、十条製紙、本州製紙の三つになったのです。合わせて幾つかのメーカーが独立しました。苫小牧製紙は後に王子製紙と改称しました。
 戦後の経済復興の時期、三白(さんぱく)景気と呼ばれる時期がありました。三白とは紙、砂糖、繊維(一説にはセメント)の事です。いずれも白い物で非常に需要が旺盛で飛ぶように売れたと言われています。この時期に紙を扱った者は大儲けをしました。
 その頃活躍した大先輩に聞いた話ですが、「トラック一杯に紙を積んで昭和通りを行くと、浅草に行く前に全部売り切れた。通り沿いの印刷会社に『紙は要らんかね』と行商する。その時値段を決めて先に現金を貰ってから荷物を下ろす。もし下ろしてからお金を受け取ろうとすれば必ず値切られるからだ。風呂敷一杯の現金を持って銀座で豪遊したこともあった。『今日は俺のおごりだ』と知らない客の分まで払った事もある」と語っていました。

 

1000枚で「1 連」
1000枚で「1 連」

業界の変化

 大変な景気だったのですが文字通り一時的なもので、豪遊に耽った者は皆落ちぶれ、真面目な者だけが生き残り経営の基盤を作りました。
その後のメーカーの発展と合併はご存知の通りで王子製紙は神崎や本州を、十条は山陽国策それに大昭和を統合して日本製紙になりました。流通も大手は積極的に合併を行い経営の安定に努めて来ました。
 私が紙業界に入った頃「キロ連」という言葉が残っていました。キロ連に対する言葉は「ポンド連」です。キロ連は千枚で一連、ポンド連は五百枚で一連を表します。「連」はREAMの日本語訳です。REAMは五百枚(又は四百八十枚)を意味する英語です。つまり昔は五百枚で一連だったのです。しかし十進法は便利ですから千枚で一連とするようになったのです。キロは千という意味ですからはっきり区別するため敢えてキロ連と表現しました(「連」はレンと読みます)。
 仕事に慣れて来た頃、石油パニックがありました。石油不足だから火力発電が充分出来ません。
街のネオンは消え、テレビの深夜放送が無くなり、燃料不足で飛行機が欠航した事もありました。ガソリン・灯油の値上げは当然ながら、他のあらゆるものの値段が上がりました。

 

石油パニック……紙不足

 そんな中ある日テレビでトイレットペーパーの安売りの場面を「買占め騒ぎ」と報じたニュース番組がありました。すると全国で買占めが起こり、各家庭の押入れはトイレットペーパーで一杯になりました。印刷用紙も高騰しキロ百円位だった上質紙が二百円以上に値上がり、紙なら何でも売れた状態になりました。紙の生産は順調で不足するはずがありません。しかし皆さん買占めに動きました。今日入荷した紙が翌日には完売、次の入荷まで二、三週間待たなければなりません。得意先に行けば叱られるので時間を潰すのが大変でした。
 この頃やはり出版定期品は安定した入荷がありました。次に安定していたのは製紙工場から直納される定期発注品でした。当用買いの紙は手に入れるのが難しく苦労しました。如何に仕入先と良い関係を築くかが紙屋の最重要課題であることを学びました。そしてお陰様で小生の給料も倍増しボーナスも増えました。あの時は一瞬でしたが未来が明るくなりました。
パニックが落ち着いた頃もう一つ私にとって明るい出来事がありました。ポケット計算機の出現です。これには助かりました!算盤が苦手だったからです。

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紙と歴史のよもやま話-14「昭和の紙業界」

 1933年(昭和8年)に王子、富士、樺太の三社は正式に合併しました。もうそれ以外選択肢は無かったほど景気が悪く各社ともに追い込まれていたのです。しかし王子の財務内容は比較的良く他社よりも体力があったと言われています。合併後の社名は王子製紙です。圧倒的なシェアーを持つ巨大製紙会社の誕生で市況は安定し利益も出るようになりました。景気が良くなったのも幸いしました。絶妙のタイミングだったのかもしれません。
この時代の事は日清・日露戦争、第一次世界大戦、関東大震災、昭和恐慌など歴史全体を見ながら考えると極めて教訓に富んだ時代だったと思います。
 1927年(昭2)に東京渡辺銀行が倒産しました。事の発端は時の大蔵大臣片岡直温(かたおかなおはる)が国会で「ただ今、渡辺銀行が破たん致しました」と口を滑らしたところから始まります。渡辺銀行は厳しい経営難に陥っていたものの営業は継続していました。間違った情報が本会議中の片岡に届けられてしまったのです。片岡の発言を受けて取り付け騒ぎが起こり渡辺銀行は完全に破綻してしまいます。取り付け騒ぎと言うのは、多数の預金者が銀行から現金を引出すため我先にと殺到する騒ぎの事です。群集心理で人々は殺気立ちます。

夜逃げをした祖父

やがて全国でも取り付け騒ぎが起きました。騒ぎを鎮静化するため日銀は紙幣の印刷を増やしました。しかしとても間に合わずとうとう片面印刷の紙幣まで発行しました。
東京渡辺銀行の倒産で私の祖父は預金を引き出すことが出来ず、全財産を失い借金だけが残り夜逃げ同然の引越をしました。もう全く貧乏の極みだったと父は言っておりました。
 その後、台湾銀行が休業に追い込まれ鈴木商店が倒産します。まさに大不況が訪れたのです。鈴木商店は日本を代表する大商社で台湾銀行から膨大な借り入れを行っていました。このような時代ですから製紙会社の経営が苦しくなったのは当然と言えば当然です。
1937年(昭12)日中戦争が始まりました。それが泥沼化しアメリカとも戦うようになって総動員法が成立し、国策によって製紙会社は強制的に合併をさせられます。王子製紙もいくつかのメーカーと合併し巨大になりました。他にも同様の合併会社が誕生し紙は政府によって完全に統制され、自由に手に入らないし自由に売れない状況になりました。実績に応じた配給制度になったのです。新聞社も出版社も年々部数の削減を余儀なくされました。米や砂糖と同じく貴重品になったのです。もっともこの頃はあらゆるものが手に入りにくい状況でした。

 

1945年(昭和20年)の戸越公園駅
1945年(昭和20年)の戸越公園駅

敗戦、統制の撤廃

そして戦後、国内の製紙工場は戦火で大きなダメージを受け、満州や樺太の工場を全て失いました。生産量は大激減。そのため紙の統制は暫く続きました。
統制の撤廃は1946年(昭和21)に実現しましたが完全な自由化が実現したのは1951年です。
この統制撤廃には業界の大運動があって初めて実現したと言われています。当時の政府は紙の専売を目指していました。専売と言っても若い人にはピンと来ないかもしれませんが、私の幼い頃は米、塩それにタバコが国による専売でした。勝手に作って勝手に売ることは出来ません。同じように紙も専売制にして国家財政に寄与させようとしたのです。
当時は「配給公団方式」と呼んだようです。それは極端に需給のギャップがあったせいでもありますが、商権を国に奪われる事になりますから業界は猛反対しました。そこにGHQが経済に国があまりに関与すべきではないと政府案に反対しました。GHQの命令は絶対ですから自由化が認められ次々と商権復活がなされたのです。
お蔭で私の父も生きて行く糧を見つけることが出来、今日の私も居るという訳です。

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紙と歴史のよもやま話-13「日本の近代製紙業の発展」

 さて我が国の近代製紙業の発展に眼を向けてみましょう。明治の初めに幾つかの機械式洋紙製
造会社が設立されました。しかし紙を作ってみたものの思うようには売れず工場は在庫の山であったようです。1876年(明治9)地券の本格的な発行が行われました。地券とは土地の所有を明らかにしたお役所の証明書です。所有権を明確にして税金を取ったのです。この地券のための紙=地券紙は膨大な量を必要としたので製紙会社には正に恵の雨でした。
 更に西南戦争(1877年)の勃発で新聞の発行が増えてようやく一息入れる事が出来るようになりました。今日では新聞は新聞社で印刷するのが当り前のようになっていますが、初めは全て外注印刷でした。新聞社が銀座に多かったので印刷会社も銀座に多かったと言われています。この頃になると製紙会社は自ら行っていた販売(直売)活動をやめて、大きな商店に委託するようになりました。販売をお願いすると言いながら価格決定権は製紙会社にあり、しかも販売店(売捌き店)の帳簿等の検閲権も製紙会社が持っていたようで、売って下さいと言うより売らせてあげようという契約内容でした。

 

一から始める洋紙の販売

 しかしながら和紙や輸入紙との競争は避けられず、やはり販売店の売る力に頼らざるを得なくなります。販売店と言っても元々紙屋だったわけではありません。一部の和紙の販売店や雑貨商が洋紙商になるなど様々でした。和紙の販売網は出来上がっており長い伝統を持っていましたが、洋紙の販売は全く一から始めなければなりませんでした。
 明治10年代の東京の洋紙販売店は十数社程でした。やがて需要も大きくなり20年代には四百社の洋紙販売店があったと言われています。この頃からメーカー直接取引の販売店(元売り)とそこから仕入れて売る二次店とが共存し、いたる所に紙を届ける事が出来るようになりました。しかしメーカーの経営は辛酸を極め販売店からの前借りなどは当たり前の事でした。
 その頃の製紙機械のいわゆる抄き幅は1m50㎝くらいのものでした。洋紙の生産が始まってから10年後でさえ抄紙機は5台しかありません。しかも抄速は20m~40m程度。これは1分間のスピードです。現代の機械は秒速で20m位は出ます。秒速ですのでお間違え無く。
 ゆっくりではありますが製紙産業は発展しました。和紙の生産も増えましたが大正の初めに洋紙は和紙の生産を上回ったようです。木材パルプの開発で洋紙は品質も値段も優位に立つことが出来ました。


製紙会社が次々と

大正時代に入るとアート紙が作られるようになります。懐かしいと感じる方も多いと思いますがNK=日本加工製紙は1917年(大正6)の創業です。同じ頃マニラボールが開発されたり、その少し前あたりから本格的な段ボールの生産(現在のレンゴー)が始まったりと新しいものが開発されて行きました。新しい製紙会社もどんどん生まれました。
第一次世界大戦で需要は増え、輸入紙は減少し市況は沸騰しましたが、戦争が終わると大反動が来ました。そこにまた関東大震災(1923年)が発生。そして昭和の金融恐慌(1927年)、アメリカに始まった世界恐慌(1929年)があり国内における過当競争も激しくなって、メーカー各社の体力の消耗は限界となりました。そして遂に大事件が起こります
1929年、富士製紙の筆頭株主であり専務だった穴水要七が亡くなり、所有していた株が王子製紙に譲渡されてしまったのです。その株を最も欲しがっていたのは大川平三郎でした。彼は富士と樺太工業の社長でしたから富士の株を手に入れ、両社を合併させ王子に対抗したいと考えていました。穴水専務の通夜の晩、株が王子に譲渡済みと知って大川は絶句したそうです。

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紙と歴史のよもやま話-12「古き良き時代の映画の話」

十戒が刻まれた石版を持つモーゼ
十戒が刻まれた石版を持つモーゼ

 ここからは年配の方には懐かしい映画「十戒」のお話です。主演はチャールトン・ヘストン、監督はセシル・B・デミル。旧約聖書の『出エジプト記』に書かれている物語を映画化したものです。三千三百年ほど前の事。モーゼは神の導きによって奴隷として使われていたヘブライの人々数万人(!?)をエジプトから脱出させます。砂漠と荒野をさまよい遂に海に差しかかりました。後ろを見るとラムセス2世の軍隊が追って来ます。もうだめだと泣き叫ぶ人々の前でモーゼは神に祈りを捧げます。するとどうでしょう、たちまち風が吹き海の水を吹き飛ばして道を作ってしまったではありませんか。人々は我先に前へと進みます。そして最後の一人が対岸にたどり着いたとき、風が止み海が戻って来ました。ラムセスの軍勢はあと少しのところで悉く海に飲まれてしまいました。こうして最大のピンチを切り抜けたモーゼはやがてシナイ山の麓にたどり着きます。そこでモーゼは神の声を聴くために山に登りました。

十戒を石板に刻む

 モーゼが四十日間山に籠り祈りを捧げていると神が語りかけて来ました。「汝殺すなかれ、汝姦淫(かんいん)するなかれ、汝盗むなかれ・・・」そしてその言葉を炎で岩に刻み付け2枚の石のプレートにしてモーゼに与えます。これがモーゼの「十戒」です。こうしてヘブライの人々が安住の地としてたどり着いたのが今のイスラエルの付近です。
 次にご紹介するのは映画「ベン・ハー」です。これも大ヒットした作品でアカデミー賞を11部門で受賞しました。主演は同じくチャールトン・ヘストン、監督はウイリアム・ワイラー。
ユダヤ人のベン・ハーはローマの軍司令官のメッサラに激しい恨みを持っていましたが、復讐のチャンスが訪れました。戦車の競争に出場することになったのです。アラブの大金持ちのイリデリウムが彼を応援します。彼の馬がベン・ハーの乗る戦車を引くからです。イリデリウムは優勝を確信し箱にたっぷり金貨を詰めてメッサラのもとに向い賭けを申し込みます。

粘土板の契約書

 「不敗を誇るローマの軍司令官、どうです賭けをしませんか」と金貨の詰まった箱を見せながら掛率の交渉が始まります。決まった掛け率は四対一。そして掛金の話になると周りから十とか百とかの声が上がります。するとイリデリウムは不機嫌そうに席を立ち「小さい、小さい。見損ないましたぞ軍司令官、ローマもたいしたことないですな」と言って帰ろうとします。プライドを傷つけられたメッサラは遂に千タラントの莫大な賭けを受ける事にしました。
 この時イリデリウムが何やらメモのようなものを書きます。書いているのは粘土板のようです。それをメッサラに渡しました。読んだメッサラは指輪を押し当てサインとします。これにて契約成立。メッサラが負けた場合に支払う額は現代のお金でざっと二千億円。結果はご推察の通りベン・ハーの勝利。宿敵メッサラは戦車から落ち死んでしまいます。
 この話は二千年前の話(映画)ですが、実際に粘土板(蝋板も)はローマでは広く使われていました。粘土板(蠟板)は木枠に入っており二つ折りの形となっていて、後世の書籍=上製本の表紙の原型になったと考えられています。
 他愛もなく映画の話をしましたが昔の人は岩、葉、木、粘土、蝋、布、革、そしてパピルス、パーチメント、様々なものに字を書いて来たことが分かります。比較してみると紙は他のどの材料よりも便利で優れた書写材ということが言えるでしょう。
 東洋において紙は書くためにだけ利用されたのではありません。特に日本においては障子や襖など建築材、包装材として幅広く利用されて来ました。水引のような芸術的なものが作られたり、懐紙として持ち歩いたり鼻紙としても使われるなど実に多彩な使われ方をしています。

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紙と歴史のよもやま話-11「印刷術の発明と紙生産の機械化」

グーテンベルクの聖書
グーテンベルクの聖書

 現存する四十二行聖書は約五十冊。日本では慶応大学が上巻を所有しています。ところで全くの余談なのですが、グーテンベルクの聖書の写真を雑誌等で見る事がありますが、行数を数えてみると四十行しかない事があります。これには理由があって最初から四十二行を決めていたわけでは無く途中から四十二行にしたからなのです。四十二行にすれば全体のページ数を減らせるし、紙も節約でき印刷回数も減らせるという経済的メリットを計算したのです。
 印刷がどんなものか見たい人々、特にお金を出したフストが早く刷って見本を見せて欲しいと要求したので、取り敢えず四十行の版で印刷したのです。ですから全ページ四十二行で統一することは出来ませんでした。このことは組版を最初のページから順に行ったのではなく、幾つかの班に分け違う箇所から同時進行的に活字を組み印刷したことを伺わせます。
 印刷術の発明は世の中を大きく変えて行きます。需要は尽きることなく増え続け、紙の需要もますます大きくなります。数十年後ちょっとした発明がありました。イタリアでイタリック文字と呼ばれる書体を斜めにした活字(筆記体)が作られたのです。何が画期的かと言うと、可読性が良いので字を小さくすることが出来たのです。結果として本はとても小さくなりました。コストは安くなるし軽いので旅行に行く時も持って行けるようになったのです。それまでの本は大きく重くて持ち上げるだけでも一苦労。そのような事もあって印刷と出版はイタリアのヴェネチアが最も盛んになりました。それは製紙業も同様でした。

製紙業の近代化

 産業革命の時代まで紙は昔と同じ方法で作られていました。そしてようやく1719年フランスのレオミュールが木から紙が出来るという論文を発表しました。蜂の観察から思い付いたと言われています。しかし彼は論文の発表だけで実用化しませんでした。百年後の1840年になってドイツ人ケラーが木材パルプの開発に成功しました。そして1844年に木をすり潰すグラインダーを発明し実用化に成功、大量生産が可能となりました。
 抄紙機の開発は1798年にフランスのロベールが機械式紙生産の特許を取得したところから始まります。どんな機械だったと言うと家庭のお風呂くらいの桶の上にエンドレスに回転する簾を置き、紙料を回転ファンによって汲み上げザブザブと掛ける仕組みでした。
 ロベールは製紙会社に勤めていましたが社長のディドーが給料もボーナスも大幅に増やすと言うので抄紙機の特許を譲り渡しました。
 ディドーは一儲けしようと思い義弟のガンブルと言う男とともにイギリスに行きました。ガンブルはドンキンという人物と改良を進め更に新しい特許も取りました。

フランスで発明、イギリスで実用化

 1804年頃フォードリニアと言う人が特許を買い取り実用化を始めました。それで長網抄紙機の事をフォードリニアマシンと呼ぶようになります。この辺りの詳しい経緯は学説によって微妙に違いがあり、例えばガンブルはディドーの持っていた設計図を盗みイギリスに行ったとか諸説あります。要するに1800年前後にフランス人のロベールが発明し、イギリス人のフォードリニアが実用化したという事です。また1809年には丸網抄紙機が開発されました。因みに1840年頃のイギリスではが200台くらいの抄紙機が動いていました。もちろんドイツでもアメリカでも 抄紙機は広く普及します。初期の抄紙機でも生産性は十倍以上あったと言われています。
抄紙機の開発と木材パルプの発明による大量生産が1800年代の中頃から始まったわけです。では紙が出来る前、人は何に字を書いていたのでしょうか。木簡、竹簡、パピルス、パーチメント・・・・話は突然3300年前に遡ります。

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紙と歴史のよもやま話-10「グーテンベルクの四十二行聖書」

 話をヨーロッパに転じます。紙は古布、古着等から作られていましたが、需要が増えるにつれて原料の不足が深刻な問題となりました。遂には墓を掘って埋葬された死者の服をはぎ取った不届き者まで現れました。エジプトのミイラまで利用したそうです。   
 古着の回収は現代の古紙回収と同じです。現代と同じように新しいファッションの流行があれば古着が多く発生します。回収を考えると大都市は紙の生産に都合の良いことが分かります。当然水は必要ですから川の側が良い訳でそのうち水の力を動力として利用するようになります。また船による輸送が発達すると都市から離れていても製紙工場は稼働可能となりましたので、郊外に大規模工場も作られるようになりました。
 さて集めた服は白く漂白する必要がありますが、女性の好きな赤色だけは白くできませんでした。勢い倉庫に溜まってしまいもう限界と言う時、赤いまま吸取紙を作ってみました。これが好評で大いに売れ、それ以後吸取紙は赤い(ピンク)ものとのイメージが定着しました。吸取紙が作られる前は吸取砂が使われていました。砂を紙面の上に振り掛けて吸収させるのです。砂の掃除を必要としないので吸取紙は誠に便利な製品だったのです。

 

グーテンベルク
グーテンベルク

活版印刷術の発明

 さて紙の歴史に関連した重大発明を忘れるわけにはまいりません。ご存知の活版印刷術の発明です。1450年頃、ドイツのマインツでグーテンベルクが一文字ずつ活字を作り、これを組み合わせて印刷する技法を開発しました。組み合わされた活字は印刷終了後バラバラに戻され繰り返し使う事が出来ます。この発明は五百年の長きにわたりほとんど変わることなく使い続けられた完璧な発明だったと言えます。例えば活字の成分は鉛とアンチモンと錫ですが今でも当時とほとんど同じ配合で作られていますし、その鋳造法も然りです。インクもグーテンベルクが開発しました。誰もやった事が無いから当然と言えば当然ですが。多色刷りにも挑戦しています。
 彼が最初に手掛けたのは聖書の印刷です。四十二行聖書と呼ばれ百八十冊ほど作られました。二割くらいがパーチメント(羊皮紙)に、残りは紙に印刷されました。この時、紙とパーチメントは共存していたわけですがパーチメントの方が高級品というイメージがありました。紙はイタリア産が大半でした。当時の紙には製紙業者のサイン=透かしが入っているので誰が作った紙かが分るのです。

 

破産してしまったグーテンベルク

 グーテンベルクはフストと言う人に資金援助を受け聖書の印刷を進めました。しかしなかなか順調には行きません。数年の月日が経ち痺れを切らしたフストは「金を返せ!」と要求しました。もうすぐ完成と言う時に。グーテンベルクはビックリします。「あれは出資金(=資本金)では無かったのか」と反論します。そして裁判となりグーテンベルクは敗訴。工場を失いました。聖書はフストの手で完成に漕ぎ着け完売。完成前に予約で一杯になっていたようです。実はフストは自分の娘と工場長のシェーファーが好い仲になっていたので二人を結婚させ、グーテンベルクがいなくても聖書は完成出来るようにしていました。そのため裁判で認められたにもかかわらず、グーテンベルクを追い出し金儲けをした大悪人のイメージがついてしまいました。しかしフストはシェーファーの幼い頃から面倒を見ていた育ての親だったことを申し添えておきます。
 印刷工場はその後も数々の印刷物を作りますが、戦火に会い消失してしまいます。教会の司教同士の争いでした。そして工場の職人たちはあちこちに広がり印刷所を作りました。こうして印刷術はヨーロッパ全体へ広がったのです。聖書の印刷は実に画期的な出来事です。印刷術は世界の文明、文化を大きく発展させました。その貢献度絶大です。

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紙と歴史のよもやま話-9「明治時代の製紙産業」

 新聞の発行は明治になって早くから行われるようになりました。初めは和紙に木版印刷していましたが記事が多くなり部数も増えて来ると、どうしても活字による高速大量印刷が必要になります。その為には平滑性の良い洋紙が求められます。そうして洋紙の需要が増えて行ったのですが中心は輸入紙でした。品質が優れ値段も安かったからです。
 この頃の明治政府は文書の全てを筆書きとすることを決めていました。ペンは使用不可。筆には和紙が良いので官庁需要はもっぱら和紙が使われていました。ですから洋紙の需要はあまり盛り上がりません。しかも品質がよろしくなく酷いものだったようで輸入紙に圧倒されていました。王子製紙の大川平三郎は当時の紙を「軟柔にして密ならず、容易に活字を填塞するの害あり、墨汁の透通を許し酷として印刷物の体裁を汚す」と評しています。

苦しかった王子製紙の経営

 大川は渋沢栄一の親戚で王子製紙では技術の中心人物でした。若くしてアメリカに渡って藁パルプの勉強をしてその技術を導入しました。このおかげで低コスト、高品質の紙が作れるようになったと言われています。しかしその前に官営の抄紙局が藁パルプの開発に成功し紙の一般販売に乗り出していたので、民間の製紙会社は益々苦しい経営を余儀なくされていました。木材パルプが原料の中心になるまではまだ時間がかかったのです。
 王子を支えたのは三井です。莫大な資金を注ぎ込んだ三井は経営を立て直すために藤原雷太を送り込み経営の大改革を行います。折しも金融事情の悪化と売行き不振で苦境に立たされた中で藤原は辣腕をふるいます。しかし社内の混乱もあって渋沢が王子を去る事になり、大川も辞めてしまいました。この一連の流れを評して三井の王子乗っ取りと言う人もいます。その後王子は三井から鈴木梅四郎を迎え、北海道の苫小牧に社運を賭けた工場を建設し見事に立ち直ります。王子を辞めた大川は九州製紙をはじめとして次々と製紙会社の経営に携わり樺太工業を設立、富士製紙の社長にも就任し製紙業界の中で一大勢力を築きました。

売れに売れた『西国立志編』

 板紙の生産についても触れておきましょう。日本最初の板紙製造を始めたのは印刷会社の秀英社を創業した佐久間貞一でした。1876年(明8)百万部の大ベストセラー『西国立志編』の印刷を佐久間が手掛け、表紙に使う板紙を自ら製造したのでした。他に無かったので自前で作るしかなかったのです。最初は手漉きでしたが後に東京板紙会社を設立し機械化します。この本の初版は木版刷りで全12冊の和綴じ本でした。とてもよく売れたので重版の時佐久間が拝み倒して受注に成功、活字印刷の1冊本(約800頁)にしたのです。筆者(正確には翻訳者=中村正直)は「活字による印刷で大丈夫か」と酷く心配したと伝えられています。本の中で「天は自ら助くる者を助く」という有名な言葉があります。秀英社は現在の大日本印刷です。
 明治の後半、政府が書類のペン書きを解禁、教科書に洋紙を採用するなど大きな変化があって製紙業はようやく盛んになり製紙会社も増えて来ました。製紙会社が増えれば競争が激しくなります。景気によって値段の乱高下が生まれます。相場が安い時と高い時は3~4倍も違いが出ました。紙に限らず昔の相場というものはそのようなものだったようです。
 1874年東京で有恒社、1875年王子製紙、1876年京都(府営)でパピール・ファブリックが設立。同じく神戸で神戸製紙所、1887年富士製紙、1914年樺太工業が設立されました。主立った製紙会社の設立を書きましたが、神戸製紙所は現在の三菱製紙です。他は全て王子製紙に統合されました。そして1933年(昭8)に富士、樺太、王子は合併し大王子製紙が出現しました。この合併には色々なドラマがありましたが後から述べる事にします。

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紙と歴史のよもやま話-8「攘夷討幕から幕臣へ、そして政府要人に」

渋沢 栄一
渋沢 栄一

 渋沢栄一とはどんな人物だったのでしょう。王子製紙の話をするのであれば創始者の渋沢栄一の事を語らずにはいられません。あまりにも有名でよく知っている方も多いと思いますが。
 渋沢栄一は今の埼玉県深谷市、血洗村という物騒な名前の村で生まれました。家は百姓で割りあい豊かでした。養蚕と藍玉の製造販売で父の仕事を手伝いながら商才を磨き、青年時代は北辰一刀流を学ぶために江戸に出て来ています。尊王攘夷が叫ばれる世の中の影響を受け、本人もすっかり攘夷派となってしまいました。村に戻り血気盛んな若者を集め、横浜にいる夷狄(いてき=外人)を成敗しに行こうと計画を立てます。高崎城を襲いこれを乗っ取り武器を奪い鎌倉街道を伝い同志を集めながら横浜に行き、外人を誅殺した勢いで江戸に向かって討幕を実行する。何とも凄い計画ですが決行直前、無謀だと悟って中止します。幕府も討幕の動きには敏感でした。すぐに探索が栄一の身辺に迫って来ました。身の危険を感じた栄一は京都に逃れます。

 

京都へ、江戸に、そしてパリ

 これが栄一の運命の分れ道だったのかもしれません。金に困ってフラフラしている時、一ツ橋家の重臣平岡円四郎が栄一の才能を認め仕官を薦めました。そこで栄一は何と百姓の身分でありながら、一ツ橋慶喜に自らの意見を聞いてもらえるならと条件を出しました。慶喜は喜んで意見を聞きましたので、尊王攘夷、討幕の志士は幕府を支える一ツ橋家の家臣となったのです。平岡円四郎は非常に優れた人で暗殺されてしまいますが、生きて慶喜を支えていたら日本の歴史は変わっていたかもしれません。間もなく一ツ橋慶喜は将軍になりました。そして栄一はパリに行くことになります。万国博覧会の日本代表団の随員に選ばれたのでした。
 その頃のフランスはナポレオン三世が皇帝で、江戸幕府を支援していました。イギリスは薩長を支援していましたので日本における英仏の主導権争いが密かに行われていた感があります。ナポレオン三世は初代の有名なナポレオンの弟の息子です。クーデターに失敗し投獄されますが脱獄、選挙で大統領に当選するなど数奇な運命の持ち主です。何と言ってもパリ改造をした事は特筆すべき偉業です。その頃のパリは糞尿まみれの汚い都市でしたが、それを綺麗な都市に改造したのがナポレオン三世です。彼は地主から土地を買い上げ住人を追い出し、区画整理をして大改造します。上下水道を整備し広い道路を作りました。そして高級分譲地として売りに出し元を取り大儲けしたのです。

役人から実業家に

 さてヨーロッパで学んだ栄一が帰国した時、日本では大政奉還が行われ将軍慶喜は静岡に引っ込んでいました。栄一も静岡に行き慶喜の下で藩の財政立て直しに力を注ぎました。暫くするとその仕事振りが中央政府の眼に止まり大隈重信(早稲田大学の創始者)に説得され新政府の役人に引っ張られます。役人生活は僅かに四年で辞めてしまいます。そして実業の世界へ足を踏み入れるのでした。最も有名なのは第一国立銀行(現みずほ銀行)の初代頭取に就任した事でしょう。他にも五百位の会社の設立にかかわったと言われています。
 王子製紙も渋沢の肝いりで作られたのですがその経営には非常に苦労しました。頼みの明治政府は抄紙局を設立し自前で紙幣用紙を作ったばかりでなく印刷用紙にも乗り出して来ました。しかし紙の中心は和紙で機械式大量生産を必要とするほどの需要はありません。ようやく政府の地租改正に伴い土地の私有が認められ、地券が発行されるようになり、その地券用紙の製造で一息つくことが出来るようになりました。そして1877年西南戦争が勃発、新聞が爆発的に発行されるようになって何とか紙が売れるようになったと言われています。このことはようやく印刷業(西洋式活版印刷)も発展したという事です。

 

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紙の歴史とよもやま話-7「宇佐八幡宮ご神託事件、道鏡の野望…そして明治時代」 

 百万塔陀羅尼が完成する一年程前の事、今の大分県にある宇佐八幡宮で「道鏡を天皇にすべし」というご神託が下ったと言うのです。本当か間違いないかと大騒ぎとなりました。そこで真実を確かめるため誰かを宇佐八幡宮に派遣する事になりました。指名されたのは和気清麻呂(わけのきよまろ)。自信満々で吉報を待つ道鏡、そして称徳天皇。果たしてその報告は・・・
 清麻呂はどのように奏上すべきか悩みに悩んだ末、次のようなご神託を賜りましたと言いました。「必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」。つまり道鏡を追放すべしと言ったのです。怒ったのは道鏡、それに称徳天皇。称徳天皇は清麻呂を今の鹿児島に流したうえ名前をキタナマロとしてしまいました。しかし道鏡を天皇にすることは諦めました。
 弓削道鏡は江戸時代の川柳に「道鏡は座ると膝が三つ出来」と詠まれるなどして、好色、絶倫のイメージが定着してしまいました。称徳天皇が崩御すると道鏡も失脚します。二人とも百万もの陀羅尼経を作ったのに長生き出来ませんでした。

 

浅草で生まれた「冷やかし」

 百万塔陀羅尼の話の以後は紙の歴史のうえでは特に目立った事件はありません。まあ江戸時代浅草の紙漉き職人が紙を水に浸けておく間に吉原を見物(見るだけ)することを“冷やかし”と言ったという話くらいがあるだけです。ただこの“冷やかし”は古紙の再生で浅草にはそれなりに業者があったことを示します。ついでに冷やかしの他にも吉原で生まれた言葉に“モテる”があります。一人の花魁(おいらん)にご指名が重なった場合、良い男の方に「持って行かれた」という事から“モテる”が生まれました。
 話は一足飛びに明治となります。そうです、わが国で機械による洋式の紙生産が始まった明治の時代に注目致しましょう。
 1870年(明治3年)百武安兵衛と言う人が伊藤博文と共にアメリカに行き製紙機械の買い付けを行いました。1874年元広島藩藩主浅野長勲(あさのながこと)が有恒社を設立しました。1875年には渋沢栄一が王子製紙を設立しました。百武の製紙会社はその後閉鎖され、有恒社は王子製紙に吸収されましたので、王子製紙は我が国の洋紙製造の歴史そのものであると言っても良いのかもしれません。

 

王子製紙豊原工場(1917年 - 1945年)
王子製紙豊原工場(1917年 - 1945年)

紙幣の紙は官で

 王子製紙は最初は抄紙会社と名乗りました。ところが大蔵省が官営の製紙所=抄紙局を作るので名称を変えろと要求して来ました。当時の大蔵省には得納良介(とくのうりょうすけ)という人物がいて、以前渋沢栄一を馬乗りになって殴ったという事件を起こしていました。得能は渋沢に嫌がらせをしたと勘ぐられても仕方がありませんが、名称変更の要求のみならず土地の半分を大蔵省に譲渡せよという無茶な要求をして来ました。しかし得能の主張は正論でした。その正論と言うのは「紙幣を作るにあたって民間の作った紙を使う訳には行かない、大蔵省で作るべきである」という訳です。仕方なく渋沢は製紙会社と名称を変えました(後に再度王子製紙と改称)。土地も言われるままに譲渡しました。
 誤算だったのは紙幣を作るにあたって国産紙でなければならないと渋沢も考えていて、その為の製紙業だったという事です。二人は大蔵省紙幣寮に一緒に勤務していましたので、全国統一の紙幣の発行に共通の理解があったのです。何しろ当時は偽札が横行し大問題になっていたので統一紙幣の発行は急務でした。得能の断固とした方針に渋沢はやられてしまいました。いかにも得能が意地悪をしたようにしか見えませんが、第一国立銀行の初代頭取に渋沢を推薦したのは得能でしたから実はお互いに良く理解し合っていたのです。

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紙と歴史のよもやま話-6「世界最古の印刷物か?」

 百万塔陀羅尼は世界最古の印刷物という事になっていましたが、「いや違う!」と思いがけないクレームつきました。お隣の韓国からです。世界遺産に登録されている名刹、仏国寺というお寺にある釈迦塔(石塔)の中から無垢浄光大陀羅尼経が発見されたのです。釈迦塔の建立は751年ですから百万塔陀羅尼より20年も古いのです。しかも則天文字が使われていました。則天文字と言うのは則天武后(中国唯一の女性皇帝)が作った新しい文字(17文字)の事です。三大悪女と呼ばれる程の人でしたので、その死後(705年)則天文字は使われなくなりました。従って発見された大陀羅尼経はそれ以前のものに違いないという訳です。かなり説得力があります。
 それに対して我が国の学者は反論しました。出来栄えが非常に良いので新しいものに違いない。それから則天文字は後世においても使われていた。その証拠に我が国の水戸光圀の「圀」は則天文字である。「この印籠が眼に入らぬか!」と気張ってみてもやや分が悪いようです。

則天文字の例
則天文字の例

 

則天武后の則天文字

 

 則天武后は凄い人で自分の生んだ子を殺して権力を手に入れたとされています。自分の生んだ赤ちゃん(当然皇帝の子)を皇后が見に来ました。勿論お祝いのためです。武照(則天武后の元の名前)はその場に立ち会いませんでした。そして皇后が去った後「赤ちゃんが死んでいる!」と騒ぎ出したのです。当然疑いはお祝いに来た皇后に向けられます。こうして皇后を失脚させ自分が皇帝と結婚し(まさに略奪)皇后となって権力を手に入れたのでした。実は時の皇帝高宗は結婚をためらいました。臣下の中に反対が多かったからです。しかし李勣(りせき)という臣下が「これは陛下の家庭の中の問題ですから我々に意見を聞く必要はございません」と返事をしたことで、高宗は武照との結婚を決意したと言われています。うまい事をいうものですね。で反対意見を言った者は次々と殺されています。
 そして武后は前皇后と皇帝のもう一人の愛人蕭淑妃(しゅうしゅくひ)を百叩きの刑に処し手足を切って酒壺に放り込んで絶命させました。その時、蕭淑妃が「死んでお前はネズミになれ。私は猫になってお前を食い殺してやる」と言ったとか。以来武后は宮廷で猫を飼う事を禁止しました。それから投書箱のようなものを作り密告政治を進め政敵を次々と殺したり、気分で元号を変えたり物凄い皇帝となったのです。恐ろしい話はいくらでもあります。

 

製作時期の特定が難しい

 

 さて10年ほど前、どちらが古いかの論争に終止符を打つような出来事がありました。韓国でその釈迦塔を詳しく調べたところ11世紀前半に納められたと書かれた文書が出て来たのです。  
 大陀羅尼経の最初の発見のきっかけは泥棒が釈迦塔の中のお宝を盗むため一部を壊したことによります。その時に大陀羅尼経を発見したのですが、しかしあまりの貴重品であり貴いものなので、バチが当る事(仏罰)を恐れ徹底調査しないまま石を元に戻し封印してしまったのです。ようやくもう一度よく調べようと言う気運が高まり調査したわけです。
 私見ですが大陀羅尼経の則天文字は、何百年もの間筆写されて来たものを忠実に印刷したので、元になる本(定本)にあった則天文字がそのまま残ったのではないかと思います。
 百万塔を作ったのは称徳天皇です。女性天皇で最初は孝謙天皇と名乗りましたが、一度引退して再度復帰して称徳天皇と名乗りました。このような事を重祚(ちょうそ)と言いますが歴史上二回あります。なお女性天皇は八人います。
 さて称徳天皇と言えば弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を忘れてはなりません。道鏡は僧侶ですが不思議な力で称徳天皇の病を治しました。そのため称徳天皇は道鏡を取立て側近にすると、道鏡はどんどん出世し法王にまで上り詰めます。そんなある日とんでもない事件が起こりました。



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紙と歴史のよもやま話-5「クレオパトラ、パピルス、百万塔陀羅尼」

 パーチメントの開発後、百年程してからエジプトにはもう一人の世界三大美女クレオパトラが現れます。クレオパトラは父の遺言により弟のプトレマイオス十三世と結婚します。現代では兄弟婚など考えられませんが当時のエジプトでは普通だったようです。二人の間で権力争いが起きますが弟の方が実権を握りました。そこにローマのカエサル(シーザー)がアレキサンドリアに現れたのでした。クレオパトラはカエサルに会おうとしますが弟の監視の目が厳しく思うように行けません。そこで彼女は絨毯の中に隠れ、従者に持たせてカエサルの所へ行きます。スパイ映画を見ているような話です。絨毯の中から現れた美女クレオパトラ、息をのむカエサル。たちまち二人は恋に落ち子供まで作ります。
 クレオパトラはローマと手を組みエジプトの権力を手に入れようとしたのでした。一説によるとカエサルの前にポンペイウスに接近していたようなのですが、ポンペイウスがカエサルに敗れたためカエサルに乗り換えたらしい。その後カエサルはローマの元老院で暗殺されてしまいます。その時「ブルータスお前もか」と言ったとか。そしてクレオパトラはまたしてもカエサルの後継争いをしていたアントニウスを恋の虜としてしまいます。クレオパトラの物語は全く紙に関係がありませんので話を戻すことに致しましょう。

パピルスの消滅

 パーチメントの開発でパピルスの生産は打撃を受けましたが、それでも長きにわたって使い続けられました。何しろ紙の製法が伝わるまで千年も待たなければならなかったのですから。しかし紙の生産がエジプトで始まる(900年頃)とパピルスはすっかり姿を消し、その製法も全く分からなくなってしまいました。現在のお土産等で売っているパピルスは近年の研究と開発によって復刻されたもので、復刻には非常に苦労したと言われています。
 復刻されたパピルスを手にしてみると薄くて平です。真白ではありません。折り曲げると割れてしまいます。従って糸で繋げて丸めて保存しました。そこは木簡と同じです。しかしある程度の面積のあるものが作れましたし、木簡より軽いのでとても便利な書写材と言う事が出来ます。
 紙が中国から西方に伝わったのが751年のタラスの戦いによると申し上げましたが、その頃の日本に眼を向けてみましょう。

 

百万も印刷した陀羅尼経

 大仏開眼が752年、764年藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱、769年宇佐八幡宮神託事件、そして770年百万塔陀羅尼完成。この百万塔陀羅尼は世界最古の印刷物として知られています。仏教に国の安寧を求めた称徳天皇が文字通り100万個も作らせたのです。十のお寺に十万基ずつ収めました。これだけたくさん作り奉納すれば御仏の功徳があまねく広がるであろうという訳です。木をロクロで削り上から見ると丸い形をした三重の塔のミニチュアです。直径10センチ、高さは22センチくらい。天辺の部分がくりぬかれていて、穴は相輪によって閉じられています。相輪を引き抜くと中は空洞になっていて丸めた印刷物(陀羅尼)が納められています。広げると幅4.5センチ、長さ15~50センチくらいの小さなものです。
 印刷は版画の技法が使われたのは疑いの無いことですが、版は金属か木材かの論争があります。木の版では擦り減ってしまうので金属による版を使ったのではないかと考える方が多いのですが、何と実際に木の版で印刷実験をした人がいました。繰り返し印刷した結果、充分耐久性はあるとの事でした。だから私は木版で印刷したと思います。印刷された陀羅尼は4種類、それぞれ二つの版で刷りました。これだけたくさん作っても幾つかの理由により現存するのは法隆寺にあるもの以外はごくわずかになってしまいました。

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紙と歴史のよもやま話-4「パピルスからパーチメントに」

 さてパーチメントの話をする前に唐の玄宗皇帝のお気に入り楊貴妃について。傾城の美女と言われる歴史に残る女性の話を致しましょう。
 楊貴妃に夢中になっていた玄宗皇帝には、もはや政の興味がありません。そして楊貴妃一族に対する優遇策は目に余るものがあり不満が増大し世の中も乱れて来ました。遂に安禄山という人が反乱を起こし洛陽を陥れます(安史の乱)。追い詰められる玄宗皇帝。とうとう都の長安を捨て逃げることにしました。不満はますます募り「こうなったのも楊貴妃のせいだ。楊貴妃を殺せ、さもないと我々は動かないぞ」という兵士の声が爆発。ついに玄宗はあれ程愛していた楊貴妃を殺す決断をしたのでした。哀れなるかな楊貴妃。これを機に玄宗は反撃に成功し長安に戻ります。
 唐の話はもう一つどうしても紹介したい話があります。それは孫悟空の物語です。紙の歴史とは直接関係はありませんがやはり面白いので一寸だけ寄り道を。

木の葉に経典を書き残す

 この暴れ猿は修行の結果何と絶対死なないという術を身につけてしまったので、乱暴の限りを尽くします。自らを『斉天大聖』と名乗り傍若無人にもお釈迦様の手の平の上で小便をひっかけ指に落書きまでしてしまいました。お釈迦様は悟空を懲らしめるため山の下敷きにして500年閉じ込めました。さすがは中国、話がデカイ。そこに通りかかったのが三蔵法師です。一緒に天竺に行くのなら助けてあげようと言って悟空を救い出します。こうして河童君、豚君、馬君とともに冒険の旅が始まるのでした。
 三蔵法師は玄宗皇帝の少し前の太宗皇帝時代の実在のお坊さん(玄奘三蔵)です。インドに仏教の経典を取りに行きました。その頃のインドには紙はありません。経典は貝多羅(ばいたら)という木の葉っぱに書かれていました。貝多羅は加工して木簡のように仕上げ文字を書き巻物として保存されていました。これを大量に持って来たのです。日本では大化の改新が行われた頃。多くの危険と困難に打克って唐に帰って来た三蔵は生涯を翻訳に捧げました。皇帝太宗はそのための建物を造り篤く援助をしました。翻訳は当然紙に書いたのです。この頃まで日本と韓国を除けば紙は中国だけのものだったのです。

経済制裁・・・パピルスを禁輸

 さてパーチメントの話を致しましょう。パーチメントが開発された(紀元前150年くらい)理由は分かっています。エジプトによる経済制裁がきっかけでした。話は古代エジプト、プトレマイオス朝の時代です。首都アレキサンドリアには世界一の大図書館がありました。何しろ寄港した船は本を全て提出しなければなりませんでした。写本をして図書館に納めるためです。実際には写本したものを船に「返還」したらしいのです。そうやって古今東西の貴重な文献を集めた大図書館の噂は地中海の向こう側にあるペルガモン国の大王エウメネスに影響を与えました。わが国にも立派な図書館が欲しいと思い立ったエウメネスはアレキサンドリアの図書館長をヘッドハンティングしようとしたのです。これに怒ったエジプト王はパピルスの輸出を止めてしまいます。まあ諸説あって真実かどうかわかりませんが、現代で言えば石油の輸出禁止のような事をしたわけです。困ったエウメネスが命じてパピルスに代わるものとして開発されたのがパーチメントと言われています。ペルガモンがその名前の由来になっています。
 パーチメントは非常に優れた書写材と言えます。パッと見ると全く紙のようです。柔らかく折り曲げられる。両面使える。そして厚くも薄くも自由に作れる。更に表面を削れば書き直しが出来る(その分偽造が簡単)。丈夫で美しく文句の付けようがありません。ただ高いのが玉に疵で、安い紙に人気が集まるのは仕方の無い事でした。

 

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紙と歴史のよもやま話-3「紙は朝鮮から日本へ、そして西欧へ」

 孫権は返書を曹操に送ります。それは紙でした。開いて見ると何も書いてありません。「これは俺への挑戦状だ!」怒った曹操はビリビリに破いてしまいます。無地の紙が宣戦布告状だったのです。これはあくまでも映画のシーン(物語)ですが、実際に紙が作られるようになってからもかなり長い間、木簡、竹簡は広く使われていたのです。映画で曹操が木簡、孫権が紙を使ったことに興味を持ちました。
 80万の大軍を率いた曹操は呉の孫権と赤壁の戦いに敗れ、これ以上を諦めて魏に引き上げました。諸葛孔明は軍師として大活躍したと三国志(正確には三国志演義)では語られていますが物語にすぎません。劉備もあまり活躍していません。実際に戦ったのは孫権の部下の周瑜(しゅうゆ)です。十倍以上の大軍を破った点で世界史に残る戦いとなりました。

 

和紙の生産が始まる

 さて中国ばかりに眼が行ってしまいましたが、日本に製紙術が伝わったのは610年、朝鮮の曇徴(どんちょう)が伝えたという事になっています。日本書紀に記録があります。朝鮮では相当早くから紙の作り方が伝わっていたようです。朝鮮の紙は日本と同じ楮(こうぞ)を原料の中心にしていました。かなり高品質の紙を作っていた可能性があります。
 604年聖徳太子が十七条の憲法を発布、「和を以て貴となす」で有名です。「和」は「やわらぎ」と読むのだそうです。三宝(仏法僧)を敬え。天皇の言う事は謹んで聞くように。そして役人は賄賂を貰うな、朝から夕方まで働け、サボるな、真面目にやれ・・・役人の心構えが多く書かれています。現在の憲法というイメージより役人心得帳のような感じです。
 小野妹子が隋に行ったのが607年。この頃海上交通がかなり発達していたようでした。だいぶ前から朝鮮との交流があったのではないかと思われます。このような時期に製紙法が日本に伝わって和紙の生産が始まりました。そして幾つかの改良が加えられ、やがて世界一とも言うべき高品質の紙が作られるようになるのです。
 ところで聖徳太子が十七条の憲法を出した時、何に書いて発表したのでしょうか。紙に書いたのでしょうか。その可能性はあると思います。既に輸入されていたと考えられるからです。もし紙が無かったらとしたら絹だったかもしれません・・・重要文書ですから。もしかしたら木簡だったかも・・・。残念な事にその当時の木簡は未だ発見されていませんが、一般の記録や命令はもっぱら木簡だったのではないかと思います。木簡はずっと長く使われました。

戦争捕虜が製紙法を

 その頃の中国では隋の時代が終わり唐が成立します。日本からは遣唐使が派遣されます。
“天野原振りさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも” 有名なこの歌は唐に渡り玄宗皇帝に仕えた阿倍仲麻呂の歌です。仲麻呂は日本への帰国を熱望していたのですが、結局帰国は叶わず唐で一生を終えました。
 この時代に唐の西の外れで一寸とした戦いが起こります。紙の歴史では重要なタラスの戦い(751年)です。アッバース朝というイスラム教を奉ずる国と戦争が起こったのです。唐の将軍は有名な高仙芝。味方の裏切りで敗れてしまいます。
 この時の戦いで多くの人が捕虜(奴隷)となり、その中に紙を作る職人がいたことで紙の製法がイスラム圏に伝わりました。多少疑問のある話ですが一応定説になっています。そうして漸く紙がヨーロッパに拡がって行くのでした。紙は比較的早くにエジプトに到達しパピルスの生産は衰退してしまいます。しかしその頃パピルスに代わる書写材が既に開発されていました。

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紙と歴史のよもやま話-2「蔡倫の死と漢の滅亡」

 蔡倫は後漢の章帝に、そして章帝の死後は和帝に仕えました。章帝から和帝に政権交代が行われた時に重大事件が起きました。その事件とは次のようなものです。
 章帝の正室は竇(とう)皇后。竇皇后には子供が出来ませんでしたが、章帝の愛人(宋貴人)には子供が出来ていました。その子が皇太子となって次期皇帝が決まってしまいました。竇皇后は焦ります。新しい皇帝が即位したら女性としてのトップの座を追われ権力を失うからです。そこで一計を案じました。竇皇后は章帝の別の愛人(梁貴人)との間に出来た子供を密かに貰い受ける事にしました。そしてわが子のように育てるのです。
 ある日竇皇后が突然騒ぎを始めました。皇太子の母親(宋貴人)が呪いをやっていると。呪い=呪術の嫌疑を訴えたのでした。人形の胸に五寸釘を打ちこんで「死ね!」と言うあれです。呪いの儀式は反逆罪=重罪です。これは嫌疑をかけた方が圧倒的に有利で証拠となる人形を見つければ良いわけです。予め誰かに用意させておいて「あったぞ」と言わせるのです。要するにヤラセ=証拠のでっち上げです。非常に古典的なやり方ではありますがよく使われて来ました。

 

調査報告で出世

 皇太子の母親(宋貴人)は捕らえられ厳しく取り調べを受けますが冤罪だと激しく抵抗します。そこで事の仔細を調査すべく任じられたのが蔡倫でした。そして調査の結果蔡倫は、皇太子の母親は呪術を行っていたと報告しました(せざるを得なかった)。そのため皇太子の母親は死刑、皇太子も次期皇帝の座を失い、竇皇后の育てた子供が次期皇帝(和帝)となったのでした。まんまと竇皇后の策略は成功しました。この「手柄」によって蔡倫は大いに出世するのです。ところが和帝が亡くなると運命が大きく変わります。次の皇帝となった安帝に蔡倫の過去についてチクる者がいたのです。安帝は呪術の嫌疑で殺された宋貴人の孫だったのです。祖母殺しの恨みは蔡倫にむけられます。運命を悟った蔡倫は身を清め静かに皇帝の使者を待ちました。使者は宮廷に出頭せよとの命令を伝え、そして毒薬を差し出します。蔡倫は静かに毒薬を飲みました。出世の切っ掛けが自らの命を縮めてしまったのです。およそ七十年の生涯でした。
 このころから漢王朝は乱れて来ます。ますます宦官の力が大きくなって賄賂政治がはびこり、乱暴者の董卓(とうたく)や呂布が現れ漢は滅びてしまいました。そして宦官の末裔の曹操(そうそう)が出て来て中国の北東部を制定し魏を作ります。宦官の末裔と言うのもおかしな話ですが、その頃には宦官でも養子をとり家督の相続が認められていたのでした。ですから曹操はれっきとした「男」です。悪役として三国志演義(以下、三国志)には描かれています。

赤壁の戦いと紙

 曹操のライバル劉備(蜀)に仕えた諸葛孔明が天下三分の計を以て曹操を苦しめます。諸葛孔明は劉備が三回も訪問して来たので仕える事を承諾しました(どうやら本当らしい)。そこから「三顧の礼」という言葉が生まれました。他にも「死せる孔明、生ける仲達を走らす」とか「泣いて馬謖を切る」という言葉が有名です。孔明は最後まで蜀の繁栄に力を尽くします。三国志は物語(小説)ですから正しい歴史書ではありません。史実7割と言われています。
 三国志の中に戦いのハイライトとして、映画「レッド・クリフ」でも有名な赤壁の戦い(208年)がありますが、この映画の中にあった一場面に紙の歴史を物語る重要なシーンがあります。
 曹操が80万の大軍を以て孫権(呉)を攻めようとして、孫権のもとに書状を送ります。その書状は木簡でした。木簡とは木を薄く削り細長く仕上げ文字を書き、糸で結び合わせ丸めて保管するものです。ここから「一巻の終わり」とか「圧巻」と言う言葉が生まれました。読むうちに孫権は怒り木簡を叩き折りバラバラにして戦う決意を固め、返書を用意するのでした。

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紙の歴史とよもやま話-1 「漢の宦官 蔡倫」

さて、さて、お立ち寄り!

 

紙の仕事に従事して約半世紀となる当社顧問の加藤による「紙の歴史とよもやま話」シリーズが本日よりスタートします。全16回の長丁場となりますが、面白くて雑学が満載です。是非最後までお付き合いください!

 

それでは、始まり、始まり~!

 紙の作り方を確立したのは中国、漢の時代の蔡倫と言われています。彼は発明者では無く改良者であると歴史の本には書いてあります。詳しい解説があり証拠も示されていますが、私は学問的な話になるとどうも退屈で眠くなってしまいます。それより蔡倫という人物と時代背景に興味があります。漢、蔡倫、宦官と言うキーワードから歴史を見ると、秦の始皇帝から楊貴妃までの中国史は断然面白い。あまり面白いので紙の歴史とその雑学を書いてみる事に致しました。雑学ですから話は飛ぶし、何の役にも立たない四方山話ですがどうぞお読みください。
 中国で初の全土統一を果たしたのが秦の始皇帝。その後の混乱の時代を経て項羽と劉邦が激闘の末成立させたのが漢。司馬遼太郎等の小説でも有名になった漢成立の物語は“背水の陣”“四面楚歌”などの言葉が生まれるほどの、まさに歴史の名場面がいくつも登場します。蔡倫は漢の時代を生きた人でした。漢が滅ぶと三国志の物語=諸葛孔明とか曹操が活躍する時代へと移ります。そして紙の歴史では楊貴妃が玄宗皇帝をメロメロにした唐の時代までが最も重要なのです。

 

宦官は影の権力者に

 蔡倫は後漢の時代の宦官です。宦官とは男であって男で無い宮廷に仕える役人の事を言います。出世の為に宦官となった人と、宮刑(役人に対する罰)によって宦官にさせられた人がいます。なぜこのような人がいるのかと言うと、後宮(日本で言う大奥)に出入りする者としての役割があったからです。そうです宦官は去勢手術を受けた男性なのです。皇帝や皇后に仕え朝な夕なに身の回りの世話をしますので家族同然となります。必然的に影響力は大きく影の権力者になり得る存在でした。肉体の違いは精神のコンプレックスを生み結束力が強く、金や権力に執着したと言われています。権力の中枢にいたので宦官の物語はたくさんあります。
 宦官の中で最も悪名高いのは始皇帝に仕えた趙高(ちょうこう)でしょう。この人は「馬鹿」を作ったと言われています。趙高は始皇帝に仕える宦官で始皇帝が死んだとき傍にいました。そして遺言をねつ造し自分の言いなりになる胡亥(こがい)を次期皇帝にしたのでした。勿論自分の地位を維持したいからです。躊躇する胡亥に対し「断じて行えば鬼神もこれを避く」と言い放ちました。そして権力を握った趙高はある日、鹿を連れて来て「見事な馬だ」と言ったのです。趙高を恐れる人々は「馬だ、見事な馬だ」と言いました。「どう見ても鹿だろう」と言った者は皆あとから捕えられ殺されました。ここから「馬鹿」という言葉が生まれたと伝えられています。

 

『紙』はなぜ糸偏か

 さて蔡倫ですが優秀な宦官だったようです。真面目で大いに出世しました。紙の作り方に工夫を凝らし見事な紙を作り皇帝に献上して誉められたと歴史書(後漢書の宦者列伝や東観漢記)にその名があります。石臼を使った事も記録に残っていて、紙の製造法を改良し確立した人として知られ、西安の西の方に蔡倫の(と伝えられる)墓があります。
 そもそも紙は洗濯後の衣服(布)の屑から作られたと言うのが定説です。現代の我々も洗濯機を回すと繊維の屑が溜まるので適時に取り除いていますが、あの屑が紙の原料であったのです。紙のようなものは恐らく沢山の洗濯をした後、桶の水を取り換えずにいたところ水が蒸発し、シート状の物が残るなどして、自然発生的に見つかったものと思われます。そして蔡倫は古着、使えなくなった漁網や麻などを主原料として使用し、水の中から抄き上げる技法を確立したのだと思います。ですから「紙」は糸偏の漢字になっているのです。木材からパルプが作られ紙となると教わった私は、ようやく「紙」という字がなぜ糸偏なのかわかりました。
 蔡倫は良質な紙を作った功あって出世をします。しかし蔡倫の出世はそれだけが理由ではありませんでした。

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ツバキ文具店

ご存じですか?

鎌倉にある文具店兼代書屋のツバキ文具店を。

代書屋というと、運転免許試験所の近くで見かける行政書士事務所のことを思い浮かべる方も多いでしょうが、ツバキ文具店が行っている代書はそれとはちょっと違うのです。
持ち込まれる案件は、ラブレターだったり、絶縁状であったり……。それを本人に成り代わって、一から文面を考えて代書し、封筒、便箋、筆記具、書体、切手に至るまでこだわりをもって手紙を仕上げて投函する。

――家族、親友、恋人⋯⋯。伝えられなかった大切な人ヘの想い、

  伝えておかなくてはならない大事なこと。

  「あなたに代わって、お届けします」

2017年本屋大賞の第四位に選ばれた小説『ツバキ文具店』(小川糸 著/幻冬舎)で描かれているのが、この代書屋なのです。

主人公は、祖母(先代の店主)が亡くなった後に店を継いだ20代の独身女性「雨宮鳩子」。幼少の頃から、代書屋の跡継ぎとして祖母から厳しく仕込まれてきたのですが、それに反発して家を飛び出してしまい、この度、祖母の訃報を受けて8年ぶりに家に戻ってきたのです。本来は店を畳むつもりで家に戻ったのですが、本人の思いとは別の次元で物事は動いていき、結局、文具店を継ぐことになり、しかも代書屋までも……。

心の底がポッと温かくなるハートフルな物語が展開していきます。

4月14日からはNHK総合でドラマもスタートし、主演の多部未華子さんが好演しています。

(NHKの公式HPはコチラ⇒ http://www.nhk.or.jp/drama10/tsubaki/

この本を読むと、もしくはドラマを見ると、ペンを持って手紙を書きたくなるんですよね~、これが。
特にドラマでは、手紙を仕上げていく過程―ペンを選び、紙を選び、依頼人らしさがにじむように書体・筆跡を整え、文体を仕上げていく様子―がシーンとして描かれているので、見ていると、より一層私たちの”書き心”を刺激してくれます。

例えば第三話『けじめの断り状』では、こんなシーンが描かれています。
主人公/鳩子のモノローグが映像と共に流れます。
「男爵(依頼人/高齢者)の雰囲気には毛筆よりも太めの万年筆が合っている。インクは漆黒。紙は便箋ではなく原稿用紙を使う」
鳩子は心を整えて、男爵になったつもりで原稿用紙に万年筆を走らせる。
<ナレーション:友人からの借金の申し入れを断る内容の文面が読み上げられる>
書き終えてほっと息をつく鳩子。「男爵の心意気を示すために脇付をあえて付け加えた。『呵々』というのは、あはは…と口を開けて大声で笑う様子を表している」
そして封筒に切手を貼る。鳩子のモノローグが流れる。「金剛力士像の切手は500円。これでは払いすぎだけど、絶対にお金は貸せない…という男爵の強い意志を示すにはこれくらいのことはしていだろう」

どうです?
このこだわり。

原稿用紙に、太い万年筆で、漆黒の文字が刻まれていきます。
切手を貼ると、切手の中の金剛力士像がこちらを睨んでいる。

う~ん、手紙の世界も奥が深いですね~。
何だかステキですよね。

先日2月3日の「文の日」の記事の中でこんなことを書きました。
 
  ”想い”は文字だけで伝えるものではなく、紙にもペンにも乗るものです。
  受け取った方は、”ふみ”を通してあなたの”想い”を感じるのです。

『ツバキ文具店』を見ていて、改めてその認識を強くしました。

 

――そうだ、手紙書こう

紙のご相談はシオザワまで。

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文(ふみ)の日

2月3日って何の日?

そう訊けば大人から子供まで、まず間違いなく「節分!」とか「豆まきの日!」と答えますよね。
それが当社の社員に限っては、「えーっと、ふみの日でしょ…」と答えます。(のはず……)

実は……


当社では、紙に携わる企業の一員として、紙のすばらしさを手紙を通じて伝えていきたいとの想いから、毎年2月3日を「シオザワふみ(2、3)の日」と内規し、日頃お世話になっている取引先の皆様に対し、感謝の気持ちを手紙にしたためる活動をおこなっています。
社会全体が急速にデジタル化している中にあって、紙のもつ役割とすばらしさを私ども紙の流通商社が見直しそれを伝えていく。そして、そのことを通じて、お取引先の皆様との“こころ”の通った関係を維持し続けていくことを趣旨として、この活動をシオザワの文化として築いていきたいと考えています。

  
”ふみの日”に手紙を出すに当たって、ちょっとした社内のルールがあります。
・「手紙のマナー」に則って書くこと。(全文、主文、末文を意識して書くなど)
・封筒や便箋にこだわりをもつこと(換言すると、普段使っている社用封筒やレポート用箋などは使わないこと)
・2月3日に先方様に届くように投函すること。

社用封筒を使わずに出すものですから、手紙を宛てたお客様からは、「会社を辞めるのか?!って、びっくりしたよ」とのお声を後になって頂戴することもあります。。。(←実は、コレ、すごく多いです。笑)

紙屋らしく、ちょっと変わった紙を便箋として使う人も多いですね。
例えば、東京都内で出た間伐材から作った『東京の木の紙』を使ってみたり、石から作った『ストーン紙』を使ってみたり。はたまた「紙屋ならでは」になりますが、諸事情で販売しなくなった在庫紙を使ってみたりと……(イイ意味で再利用ですね)。

みなさまもいかがですか?
――手紙をしたためる

こだわった紙に、こだわりのペンで。

言いたいことは文字で伝わりますが、”想い”は紙にもペンにも乗るものです。

受け取った方は、「ふみ」を通してあなたの”想い”を感じるのです。


====はみだし情報====
当社でご用意できます。
▶東京の木の紙: 東京都内の間伐材を素材として作った紙。独特の風合いをもつ。

                          「地産地消型ペーパー」という新ジャンルの紙。

                           東京都で開かれた国民体育大会の賞状用紙としても使用された。

▶ストーン紙: 石を素材として作った紙。耐水性があり破れにくい。
        手提げ袋、地図など用途多数あり。

▶あなたのお気に入りの紙: あります!

 

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