孫権は返書を曹操に送ります。それは紙でした。開いて見ると何も書いてありません。「これは俺への挑戦状だ!」怒った曹操はビリビリに破いてしまいます。無地の紙が宣戦布告状だったのです。これはあくまでも映画のシーン(物語)ですが、実際に紙が作られるようになってからもかなり長い間、木簡、竹簡は広く使われていたのです。映画で曹操が木簡、孫権が紙を使ったことに興味を持ちました。
80万の大軍を率いた曹操は呉の孫権と赤壁の戦いに敗れ、これ以上を諦めて魏に引き上げました。諸葛孔明は軍師として大活躍したと三国志(正確には三国志演義)では語られていますが物語にすぎません。劉備もあまり活躍していません。実際に戦ったのは孫権の部下の周瑜(しゅうゆ)です。十倍以上の大軍を破った点で世界史に残る戦いとなりました。
和紙の生産が始まる
さて中国ばかりに眼が行ってしまいましたが、日本に製紙術が伝わったのは610年、朝鮮の曇徴(どんちょう)が伝えたという事になっています。日本書紀に記録があります。朝鮮では相当早くから紙の作り方が伝わっていたようです。朝鮮の紙は日本と同じ楮(こうぞ)を原料の中心にしていました。かなり高品質の紙を作っていた可能性があります。
604年聖徳太子が十七条の憲法を発布、「和を以て貴となす」で有名です。「和」は「やわらぎ」と読むのだそうです。三宝(仏法僧)を敬え。天皇の言う事は謹んで聞くように。そして役人は賄賂を貰うな、朝から夕方まで働け、サボるな、真面目にやれ・・・役人の心構えが多く書かれています。現在の憲法というイメージより役人心得帳のような感じです。
小野妹子が隋に行ったのが607年。この頃海上交通がかなり発達していたようでした。だいぶ前から朝鮮との交流があったのではないかと思われます。このような時期に製紙法が日本に伝わって和紙の生産が始まりました。そして幾つかの改良が加えられ、やがて世界一とも言うべき高品質の紙が作られるようになるのです。
ところで聖徳太子が十七条の憲法を出した時、何に書いて発表したのでしょうか。紙に書いたのでしょうか。その可能性はあると思います。既に輸入されていたと考えられるからです。もし紙が無かったらとしたら絹だったかもしれません・・・重要文書ですから。もしかしたら木簡だったかも・・・。残念な事にその当時の木簡は未だ発見されていませんが、一般の記録や命令はもっぱら木簡だったのではないかと思います。木簡はずっと長く使われました。
戦争捕虜が製紙法を
その頃の中国では隋の時代が終わり唐が成立します。日本からは遣唐使が派遣されます。
“天野原振りさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも” 有名なこの歌は唐に渡り玄宗皇帝に仕えた阿倍仲麻呂の歌です。仲麻呂は日本への帰国を熱望していたのですが、結局帰国は叶わず唐で一生を終えました。
この時代に唐の西の外れで一寸とした戦いが起こります。紙の歴史では重要なタラスの戦い(751年)です。アッバース朝というイスラム教を奉ずる国と戦争が起こったのです。唐の将軍は有名な高仙芝。味方の裏切りで敗れてしまいます。
この時の戦いで多くの人が捕虜(奴隷)となり、その中に紙を作る職人がいたことで紙の製法がイスラム圏に伝わりました。多少疑問のある話ですが一応定説になっています。そうして漸く紙がヨーロッパに拡がって行くのでした。紙は比較的早くにエジプトに到達しパピルスの生産は衰退してしまいます。しかしその頃パピルスに代わる書写材が既に開発されていました。