紙と歴史のよもやま話-5「クレオパトラ、パピルス、百万塔陀羅尼」

 パーチメントの開発後、百年程してからエジプトにはもう一人の世界三大美女クレオパトラが現れます。クレオパトラは父の遺言により弟のプトレマイオス十三世と結婚します。現代では兄弟婚など考えられませんが当時のエジプトでは普通だったようです。二人の間で権力争いが起きますが弟の方が実権を握りました。そこにローマのカエサル(シーザー)がアレキサンドリアに現れたのでした。クレオパトラはカエサルに会おうとしますが弟の監視の目が厳しく思うように行けません。そこで彼女は絨毯の中に隠れ、従者に持たせてカエサルの所へ行きます。スパイ映画を見ているような話です。絨毯の中から現れた美女クレオパトラ、息をのむカエサル。たちまち二人は恋に落ち子供まで作ります。
 クレオパトラはローマと手を組みエジプトの権力を手に入れようとしたのでした。一説によるとカエサルの前にポンペイウスに接近していたようなのですが、ポンペイウスがカエサルに敗れたためカエサルに乗り換えたらしい。その後カエサルはローマの元老院で暗殺されてしまいます。その時「ブルータスお前もか」と言ったとか。そしてクレオパトラはまたしてもカエサルの後継争いをしていたアントニウスを恋の虜としてしまいます。クレオパトラの物語は全く紙に関係がありませんので話を戻すことに致しましょう。

パピルスの消滅

 パーチメントの開発でパピルスの生産は打撃を受けましたが、それでも長きにわたって使い続けられました。何しろ紙の製法が伝わるまで千年も待たなければならなかったのですから。しかし紙の生産がエジプトで始まる(900年頃)とパピルスはすっかり姿を消し、その製法も全く分からなくなってしまいました。現在のお土産等で売っているパピルスは近年の研究と開発によって復刻されたもので、復刻には非常に苦労したと言われています。
 復刻されたパピルスを手にしてみると薄くて平です。真白ではありません。折り曲げると割れてしまいます。従って糸で繋げて丸めて保存しました。そこは木簡と同じです。しかしある程度の面積のあるものが作れましたし、木簡より軽いのでとても便利な書写材と言う事が出来ます。
 紙が中国から西方に伝わったのが751年のタラスの戦いによると申し上げましたが、その頃の日本に眼を向けてみましょう。

 

百万も印刷した陀羅尼経

 大仏開眼が752年、764年藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱、769年宇佐八幡宮神託事件、そして770年百万塔陀羅尼完成。この百万塔陀羅尼は世界最古の印刷物として知られています。仏教に国の安寧を求めた称徳天皇が文字通り100万個も作らせたのです。十のお寺に十万基ずつ収めました。これだけたくさん作り奉納すれば御仏の功徳があまねく広がるであろうという訳です。木をロクロで削り上から見ると丸い形をした三重の塔のミニチュアです。直径10センチ、高さは22センチくらい。天辺の部分がくりぬかれていて、穴は相輪によって閉じられています。相輪を引き抜くと中は空洞になっていて丸めた印刷物(陀羅尼)が納められています。広げると幅4.5センチ、長さ15~50センチくらいの小さなものです。
 印刷は版画の技法が使われたのは疑いの無いことですが、版は金属か木材かの論争があります。木の版では擦り減ってしまうので金属による版を使ったのではないかと考える方が多いのですが、何と実際に木の版で印刷実験をした人がいました。繰り返し印刷した結果、充分耐久性はあるとの事でした。だから私は木版で印刷したと思います。印刷された陀羅尼は4種類、それぞれ二つの版で刷りました。これだけたくさん作っても幾つかの理由により現存するのは法隆寺にあるもの以外はごくわずかになってしまいました。