紙と歴史のよもやま話-15「戦後にあったあれこれ」

 ようやく統制撤廃が実現し完全自由化への動きの中、製紙業界に於いて大事件が発生しました。1949年(昭24)GHQによって財閥解体が行われ王子製紙の分割が余儀なくされたのです。王子製紙は財閥とは違いましたが圧倒的なシェアーがあったため分割が命令されたのでした。苫小牧製紙、十条製紙、本州製紙の三つになったのです。合わせて幾つかのメーカーが独立しました。苫小牧製紙は後に王子製紙と改称しました。
 戦後の経済復興の時期、三白(さんぱく)景気と呼ばれる時期がありました。三白とは紙、砂糖、繊維(一説にはセメント)の事です。いずれも白い物で非常に需要が旺盛で飛ぶように売れたと言われています。この時期に紙を扱った者は大儲けをしました。
 その頃活躍した大先輩に聞いた話ですが、「トラック一杯に紙を積んで昭和通りを行くと、浅草に行く前に全部売り切れた。通り沿いの印刷会社に『紙は要らんかね』と行商する。その時値段を決めて先に現金を貰ってから荷物を下ろす。もし下ろしてからお金を受け取ろうとすれば必ず値切られるからだ。風呂敷一杯の現金を持って銀座で豪遊したこともあった。『今日は俺のおごりだ』と知らない客の分まで払った事もある」と語っていました。

 

1000枚で「1 連」
1000枚で「1 連」

業界の変化

 大変な景気だったのですが文字通り一時的なもので、豪遊に耽った者は皆落ちぶれ、真面目な者だけが生き残り経営の基盤を作りました。
その後のメーカーの発展と合併はご存知の通りで王子製紙は神崎や本州を、十条は山陽国策それに大昭和を統合して日本製紙になりました。流通も大手は積極的に合併を行い経営の安定に努めて来ました。
 私が紙業界に入った頃「キロ連」という言葉が残っていました。キロ連に対する言葉は「ポンド連」です。キロ連は千枚で一連、ポンド連は五百枚で一連を表します。「連」はREAMの日本語訳です。REAMは五百枚(又は四百八十枚)を意味する英語です。つまり昔は五百枚で一連だったのです。しかし十進法は便利ですから千枚で一連とするようになったのです。キロは千という意味ですからはっきり区別するため敢えてキロ連と表現しました(「連」はレンと読みます)。
 仕事に慣れて来た頃、石油パニックがありました。石油不足だから火力発電が充分出来ません。
街のネオンは消え、テレビの深夜放送が無くなり、燃料不足で飛行機が欠航した事もありました。ガソリン・灯油の値上げは当然ながら、他のあらゆるものの値段が上がりました。

 

石油パニック……紙不足

 そんな中ある日テレビでトイレットペーパーの安売りの場面を「買占め騒ぎ」と報じたニュース番組がありました。すると全国で買占めが起こり、各家庭の押入れはトイレットペーパーで一杯になりました。印刷用紙も高騰しキロ百円位だった上質紙が二百円以上に値上がり、紙なら何でも売れた状態になりました。紙の生産は順調で不足するはずがありません。しかし皆さん買占めに動きました。今日入荷した紙が翌日には完売、次の入荷まで二、三週間待たなければなりません。得意先に行けば叱られるので時間を潰すのが大変でした。
 この頃やはり出版定期品は安定した入荷がありました。次に安定していたのは製紙工場から直納される定期発注品でした。当用買いの紙は手に入れるのが難しく苦労しました。如何に仕入先と良い関係を築くかが紙屋の最重要課題であることを学びました。そしてお陰様で小生の給料も倍増しボーナスも増えました。あの時は一瞬でしたが未来が明るくなりました。
パニックが落ち着いた頃もう一つ私にとって明るい出来事がありました。ポケット計算機の出現です。これには助かりました!算盤が苦手だったからです。