紙と歴史のよもやま話-4「パピルスからパーチメントに」

 さてパーチメントの話をする前に唐の玄宗皇帝のお気に入り楊貴妃について。傾城の美女と言われる歴史に残る女性の話を致しましょう。
 楊貴妃に夢中になっていた玄宗皇帝には、もはや政の興味がありません。そして楊貴妃一族に対する優遇策は目に余るものがあり不満が増大し世の中も乱れて来ました。遂に安禄山という人が反乱を起こし洛陽を陥れます(安史の乱)。追い詰められる玄宗皇帝。とうとう都の長安を捨て逃げることにしました。不満はますます募り「こうなったのも楊貴妃のせいだ。楊貴妃を殺せ、さもないと我々は動かないぞ」という兵士の声が爆発。ついに玄宗はあれ程愛していた楊貴妃を殺す決断をしたのでした。哀れなるかな楊貴妃。これを機に玄宗は反撃に成功し長安に戻ります。
 唐の話はもう一つどうしても紹介したい話があります。それは孫悟空の物語です。紙の歴史とは直接関係はありませんがやはり面白いので一寸だけ寄り道を。

木の葉に経典を書き残す

 この暴れ猿は修行の結果何と絶対死なないという術を身につけてしまったので、乱暴の限りを尽くします。自らを『斉天大聖』と名乗り傍若無人にもお釈迦様の手の平の上で小便をひっかけ指に落書きまでしてしまいました。お釈迦様は悟空を懲らしめるため山の下敷きにして500年閉じ込めました。さすがは中国、話がデカイ。そこに通りかかったのが三蔵法師です。一緒に天竺に行くのなら助けてあげようと言って悟空を救い出します。こうして河童君、豚君、馬君とともに冒険の旅が始まるのでした。
 三蔵法師は玄宗皇帝の少し前の太宗皇帝時代の実在のお坊さん(玄奘三蔵)です。インドに仏教の経典を取りに行きました。その頃のインドには紙はありません。経典は貝多羅(ばいたら)という木の葉っぱに書かれていました。貝多羅は加工して木簡のように仕上げ文字を書き巻物として保存されていました。これを大量に持って来たのです。日本では大化の改新が行われた頃。多くの危険と困難に打克って唐に帰って来た三蔵は生涯を翻訳に捧げました。皇帝太宗はそのための建物を造り篤く援助をしました。翻訳は当然紙に書いたのです。この頃まで日本と韓国を除けば紙は中国だけのものだったのです。

経済制裁・・・パピルスを禁輸

 さてパーチメントの話を致しましょう。パーチメントが開発された(紀元前150年くらい)理由は分かっています。エジプトによる経済制裁がきっかけでした。話は古代エジプト、プトレマイオス朝の時代です。首都アレキサンドリアには世界一の大図書館がありました。何しろ寄港した船は本を全て提出しなければなりませんでした。写本をして図書館に納めるためです。実際には写本したものを船に「返還」したらしいのです。そうやって古今東西の貴重な文献を集めた大図書館の噂は地中海の向こう側にあるペルガモン国の大王エウメネスに影響を与えました。わが国にも立派な図書館が欲しいと思い立ったエウメネスはアレキサンドリアの図書館長をヘッドハンティングしようとしたのです。これに怒ったエジプト王はパピルスの輸出を止めてしまいます。まあ諸説あって真実かどうかわかりませんが、現代で言えば石油の輸出禁止のような事をしたわけです。困ったエウメネスが命じてパピルスに代わるものとして開発されたのがパーチメントと言われています。ペルガモンがその名前の由来になっています。
 パーチメントは非常に優れた書写材と言えます。パッと見ると全く紙のようです。柔らかく折り曲げられる。両面使える。そして厚くも薄くも自由に作れる。更に表面を削れば書き直しが出来る(その分偽造が簡単)。丈夫で美しく文句の付けようがありません。ただ高いのが玉に疵で、安い紙に人気が集まるのは仕方の無い事でした。