さて我が国の近代製紙業の発展に眼を向けてみましょう。明治の初めに幾つかの機械式洋紙製
造会社が設立されました。しかし紙を作ってみたものの思うようには売れず工場は在庫の山であったようです。1876年(明治9)地券の本格的な発行が行われました。地券とは土地の所有を明らかにしたお役所の証明書です。所有権を明確にして税金を取ったのです。この地券のための紙=地券紙は膨大な量を必要としたので製紙会社には正に恵の雨でした。
更に西南戦争(1877年)の勃発で新聞の発行が増えてようやく一息入れる事が出来るようになりました。今日では新聞は新聞社で印刷するのが当り前のようになっていますが、初めは全て外注印刷でした。新聞社が銀座に多かったので印刷会社も銀座に多かったと言われています。この頃になると製紙会社は自ら行っていた販売(直売)活動をやめて、大きな商店に委託するようになりました。販売をお願いすると言いながら価格決定権は製紙会社にあり、しかも販売店(売捌き店)の帳簿等の検閲権も製紙会社が持っていたようで、売って下さいと言うより売らせてあげようという契約内容でした。
一から始める洋紙の販売
しかしながら和紙や輸入紙との競争は避けられず、やはり販売店の売る力に頼らざるを得なくなります。販売店と言っても元々紙屋だったわけではありません。一部の和紙の販売店や雑貨商が洋紙商になるなど様々でした。和紙の販売網は出来上がっており長い伝統を持っていましたが、洋紙の販売は全く一から始めなければなりませんでした。
明治10年代の東京の洋紙販売店は十数社程でした。やがて需要も大きくなり20年代には四百社の洋紙販売店があったと言われています。この頃からメーカー直接取引の販売店(元売り)とそこから仕入れて売る二次店とが共存し、いたる所に紙を届ける事が出来るようになりました。しかしメーカーの経営は辛酸を極め販売店からの前借りなどは当たり前の事でした。
その頃の製紙機械のいわゆる抄き幅は1m50㎝くらいのものでした。洋紙の生産が始まってから10年後でさえ抄紙機は5台しかありません。しかも抄速は20m~40m程度。これは1分間のスピードです。現代の機械は秒速で20m位は出ます。秒速ですのでお間違え無く。
ゆっくりではありますが製紙産業は発展しました。和紙の生産も増えましたが大正の初めに洋紙は和紙の生産を上回ったようです。木材パルプの開発で洋紙は品質も値段も優位に立つことが出来ました。
製紙会社が次々と
大正時代に入るとアート紙が作られるようになります。懐かしいと感じる方も多いと思いますがNK=日本加工製紙は1917年(大正6)の創業です。同じ頃マニラボールが開発されたり、その少し前あたりから本格的な段ボールの生産(現在のレンゴー)が始まったりと新しいものが開発されて行きました。新しい製紙会社もどんどん生まれました。
第一次世界大戦で需要は増え、輸入紙は減少し市況は沸騰しましたが、戦争が終わると大反動が来ました。そこにまた関東大震災(1923年)が発生。そして昭和の金融恐慌(1927年)、アメリカに始まった世界恐慌(1929年)があり国内における過当競争も激しくなって、メーカー各社の体力の消耗は限界となりました。そして遂に大事件が起こります
1929年、富士製紙の筆頭株主であり専務だった穴水要七が亡くなり、所有していた株が王子製紙に譲渡されてしまったのです。その株を最も欲しがっていたのは大川平三郎でした。彼は富士と樺太工業の社長でしたから富士の株を手に入れ、両社を合併させ王子に対抗したいと考えていました。穴水専務の通夜の晩、株が王子に譲渡済みと知って大川は絶句したそうです。