紙と歴史のよもやま話-9「明治時代の製紙産業」

 新聞の発行は明治になって早くから行われるようになりました。初めは和紙に木版印刷していましたが記事が多くなり部数も増えて来ると、どうしても活字による高速大量印刷が必要になります。その為には平滑性の良い洋紙が求められます。そうして洋紙の需要が増えて行ったのですが中心は輸入紙でした。品質が優れ値段も安かったからです。
 この頃の明治政府は文書の全てを筆書きとすることを決めていました。ペンは使用不可。筆には和紙が良いので官庁需要はもっぱら和紙が使われていました。ですから洋紙の需要はあまり盛り上がりません。しかも品質がよろしくなく酷いものだったようで輸入紙に圧倒されていました。王子製紙の大川平三郎は当時の紙を「軟柔にして密ならず、容易に活字を填塞するの害あり、墨汁の透通を許し酷として印刷物の体裁を汚す」と評しています。

苦しかった王子製紙の経営

 大川は渋沢栄一の親戚で王子製紙では技術の中心人物でした。若くしてアメリカに渡って藁パルプの勉強をしてその技術を導入しました。このおかげで低コスト、高品質の紙が作れるようになったと言われています。しかしその前に官営の抄紙局が藁パルプの開発に成功し紙の一般販売に乗り出していたので、民間の製紙会社は益々苦しい経営を余儀なくされていました。木材パルプが原料の中心になるまではまだ時間がかかったのです。
 王子を支えたのは三井です。莫大な資金を注ぎ込んだ三井は経営を立て直すために藤原雷太を送り込み経営の大改革を行います。折しも金融事情の悪化と売行き不振で苦境に立たされた中で藤原は辣腕をふるいます。しかし社内の混乱もあって渋沢が王子を去る事になり、大川も辞めてしまいました。この一連の流れを評して三井の王子乗っ取りと言う人もいます。その後王子は三井から鈴木梅四郎を迎え、北海道の苫小牧に社運を賭けた工場を建設し見事に立ち直ります。王子を辞めた大川は九州製紙をはじめとして次々と製紙会社の経営に携わり樺太工業を設立、富士製紙の社長にも就任し製紙業界の中で一大勢力を築きました。

売れに売れた『西国立志編』

 板紙の生産についても触れておきましょう。日本最初の板紙製造を始めたのは印刷会社の秀英社を創業した佐久間貞一でした。1876年(明8)百万部の大ベストセラー『西国立志編』の印刷を佐久間が手掛け、表紙に使う板紙を自ら製造したのでした。他に無かったので自前で作るしかなかったのです。最初は手漉きでしたが後に東京板紙会社を設立し機械化します。この本の初版は木版刷りで全12冊の和綴じ本でした。とてもよく売れたので重版の時佐久間が拝み倒して受注に成功、活字印刷の1冊本(約800頁)にしたのです。筆者(正確には翻訳者=中村正直)は「活字による印刷で大丈夫か」と酷く心配したと伝えられています。本の中で「天は自ら助くる者を助く」という有名な言葉があります。秀英社は現在の大日本印刷です。
 明治の後半、政府が書類のペン書きを解禁、教科書に洋紙を採用するなど大きな変化があって製紙業はようやく盛んになり製紙会社も増えて来ました。製紙会社が増えれば競争が激しくなります。景気によって値段の乱高下が生まれます。相場が安い時と高い時は3~4倍も違いが出ました。紙に限らず昔の相場というものはそのようなものだったようです。
 1874年東京で有恒社、1875年王子製紙、1876年京都(府営)でパピール・ファブリックが設立。同じく神戸で神戸製紙所、1887年富士製紙、1914年樺太工業が設立されました。主立った製紙会社の設立を書きましたが、神戸製紙所は現在の三菱製紙です。他は全て王子製紙に統合されました。そして1933年(昭8)に富士、樺太、王子は合併し大王子製紙が出現しました。この合併には色々なドラマがありましたが後から述べる事にします。