紙と歴史のよもやま話-8「攘夷討幕から幕臣へ、そして政府要人に」

渋沢 栄一
渋沢 栄一

 渋沢栄一とはどんな人物だったのでしょう。王子製紙の話をするのであれば創始者の渋沢栄一の事を語らずにはいられません。あまりにも有名でよく知っている方も多いと思いますが。
 渋沢栄一は今の埼玉県深谷市、血洗村という物騒な名前の村で生まれました。家は百姓で割りあい豊かでした。養蚕と藍玉の製造販売で父の仕事を手伝いながら商才を磨き、青年時代は北辰一刀流を学ぶために江戸に出て来ています。尊王攘夷が叫ばれる世の中の影響を受け、本人もすっかり攘夷派となってしまいました。村に戻り血気盛んな若者を集め、横浜にいる夷狄(いてき=外人)を成敗しに行こうと計画を立てます。高崎城を襲いこれを乗っ取り武器を奪い鎌倉街道を伝い同志を集めながら横浜に行き、外人を誅殺した勢いで江戸に向かって討幕を実行する。何とも凄い計画ですが決行直前、無謀だと悟って中止します。幕府も討幕の動きには敏感でした。すぐに探索が栄一の身辺に迫って来ました。身の危険を感じた栄一は京都に逃れます。

 

京都へ、江戸に、そしてパリ

 これが栄一の運命の分れ道だったのかもしれません。金に困ってフラフラしている時、一ツ橋家の重臣平岡円四郎が栄一の才能を認め仕官を薦めました。そこで栄一は何と百姓の身分でありながら、一ツ橋慶喜に自らの意見を聞いてもらえるならと条件を出しました。慶喜は喜んで意見を聞きましたので、尊王攘夷、討幕の志士は幕府を支える一ツ橋家の家臣となったのです。平岡円四郎は非常に優れた人で暗殺されてしまいますが、生きて慶喜を支えていたら日本の歴史は変わっていたかもしれません。間もなく一ツ橋慶喜は将軍になりました。そして栄一はパリに行くことになります。万国博覧会の日本代表団の随員に選ばれたのでした。
 その頃のフランスはナポレオン三世が皇帝で、江戸幕府を支援していました。イギリスは薩長を支援していましたので日本における英仏の主導権争いが密かに行われていた感があります。ナポレオン三世は初代の有名なナポレオンの弟の息子です。クーデターに失敗し投獄されますが脱獄、選挙で大統領に当選するなど数奇な運命の持ち主です。何と言ってもパリ改造をした事は特筆すべき偉業です。その頃のパリは糞尿まみれの汚い都市でしたが、それを綺麗な都市に改造したのがナポレオン三世です。彼は地主から土地を買い上げ住人を追い出し、区画整理をして大改造します。上下水道を整備し広い道路を作りました。そして高級分譲地として売りに出し元を取り大儲けしたのです。

役人から実業家に

 さてヨーロッパで学んだ栄一が帰国した時、日本では大政奉還が行われ将軍慶喜は静岡に引っ込んでいました。栄一も静岡に行き慶喜の下で藩の財政立て直しに力を注ぎました。暫くするとその仕事振りが中央政府の眼に止まり大隈重信(早稲田大学の創始者)に説得され新政府の役人に引っ張られます。役人生活は僅かに四年で辞めてしまいます。そして実業の世界へ足を踏み入れるのでした。最も有名なのは第一国立銀行(現みずほ銀行)の初代頭取に就任した事でしょう。他にも五百位の会社の設立にかかわったと言われています。
 王子製紙も渋沢の肝いりで作られたのですがその経営には非常に苦労しました。頼みの明治政府は抄紙局を設立し自前で紙幣用紙を作ったばかりでなく印刷用紙にも乗り出して来ました。しかし紙の中心は和紙で機械式大量生産を必要とするほどの需要はありません。ようやく政府の地租改正に伴い土地の私有が認められ、地券が発行されるようになり、その地券用紙の製造で一息つくことが出来るようになりました。そして1877年西南戦争が勃発、新聞が爆発的に発行されるようになって何とか紙が売れるようになったと言われています。このことはようやく印刷業(西洋式活版印刷)も発展したという事です。