紙の歴史とよもやま話-7「宇佐八幡宮ご神託事件、道鏡の野望…そして明治時代」 

 百万塔陀羅尼が完成する一年程前の事、今の大分県にある宇佐八幡宮で「道鏡を天皇にすべし」というご神託が下ったと言うのです。本当か間違いないかと大騒ぎとなりました。そこで真実を確かめるため誰かを宇佐八幡宮に派遣する事になりました。指名されたのは和気清麻呂(わけのきよまろ)。自信満々で吉報を待つ道鏡、そして称徳天皇。果たしてその報告は・・・
 清麻呂はどのように奏上すべきか悩みに悩んだ末、次のようなご神託を賜りましたと言いました。「必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」。つまり道鏡を追放すべしと言ったのです。怒ったのは道鏡、それに称徳天皇。称徳天皇は清麻呂を今の鹿児島に流したうえ名前をキタナマロとしてしまいました。しかし道鏡を天皇にすることは諦めました。
 弓削道鏡は江戸時代の川柳に「道鏡は座ると膝が三つ出来」と詠まれるなどして、好色、絶倫のイメージが定着してしまいました。称徳天皇が崩御すると道鏡も失脚します。二人とも百万もの陀羅尼経を作ったのに長生き出来ませんでした。

 

浅草で生まれた「冷やかし」

 百万塔陀羅尼の話の以後は紙の歴史のうえでは特に目立った事件はありません。まあ江戸時代浅草の紙漉き職人が紙を水に浸けておく間に吉原を見物(見るだけ)することを“冷やかし”と言ったという話くらいがあるだけです。ただこの“冷やかし”は古紙の再生で浅草にはそれなりに業者があったことを示します。ついでに冷やかしの他にも吉原で生まれた言葉に“モテる”があります。一人の花魁(おいらん)にご指名が重なった場合、良い男の方に「持って行かれた」という事から“モテる”が生まれました。
 話は一足飛びに明治となります。そうです、わが国で機械による洋式の紙生産が始まった明治の時代に注目致しましょう。
 1870年(明治3年)百武安兵衛と言う人が伊藤博文と共にアメリカに行き製紙機械の買い付けを行いました。1874年元広島藩藩主浅野長勲(あさのながこと)が有恒社を設立しました。1875年には渋沢栄一が王子製紙を設立しました。百武の製紙会社はその後閉鎖され、有恒社は王子製紙に吸収されましたので、王子製紙は我が国の洋紙製造の歴史そのものであると言っても良いのかもしれません。

 

王子製紙豊原工場(1917年 - 1945年)
王子製紙豊原工場(1917年 - 1945年)

紙幣の紙は官で

 王子製紙は最初は抄紙会社と名乗りました。ところが大蔵省が官営の製紙所=抄紙局を作るので名称を変えろと要求して来ました。当時の大蔵省には得納良介(とくのうりょうすけ)という人物がいて、以前渋沢栄一を馬乗りになって殴ったという事件を起こしていました。得能は渋沢に嫌がらせをしたと勘ぐられても仕方がありませんが、名称変更の要求のみならず土地の半分を大蔵省に譲渡せよという無茶な要求をして来ました。しかし得能の主張は正論でした。その正論と言うのは「紙幣を作るにあたって民間の作った紙を使う訳には行かない、大蔵省で作るべきである」という訳です。仕方なく渋沢は製紙会社と名称を変えました(後に再度王子製紙と改称)。土地も言われるままに譲渡しました。
 誤算だったのは紙幣を作るにあたって国産紙でなければならないと渋沢も考えていて、その為の製紙業だったという事です。二人は大蔵省紙幣寮に一緒に勤務していましたので、全国統一の紙幣の発行に共通の理解があったのです。何しろ当時は偽札が横行し大問題になっていたので統一紙幣の発行は急務でした。得能の断固とした方針に渋沢はやられてしまいました。いかにも得能が意地悪をしたようにしか見えませんが、第一国立銀行の初代頭取に渋沢を推薦したのは得能でしたから実はお互いに良く理解し合っていたのです。