紙の歴史とよもやま話-1 「漢の宦官 蔡倫」

さて、さて、お立ち寄り!

 

紙の仕事に従事して約半世紀となる当社顧問の加藤による「紙の歴史とよもやま話」シリーズが本日よりスタートします。全16回の長丁場となりますが、面白くて雑学が満載です。是非最後までお付き合いください!

 

それでは、始まり、始まり~!

 紙の作り方を確立したのは中国、漢の時代の蔡倫と言われています。彼は発明者では無く改良者であると歴史の本には書いてあります。詳しい解説があり証拠も示されていますが、私は学問的な話になるとどうも退屈で眠くなってしまいます。それより蔡倫という人物と時代背景に興味があります。漢、蔡倫、宦官と言うキーワードから歴史を見ると、秦の始皇帝から楊貴妃までの中国史は断然面白い。あまり面白いので紙の歴史とその雑学を書いてみる事に致しました。雑学ですから話は飛ぶし、何の役にも立たない四方山話ですがどうぞお読みください。
 中国で初の全土統一を果たしたのが秦の始皇帝。その後の混乱の時代を経て項羽と劉邦が激闘の末成立させたのが漢。司馬遼太郎等の小説でも有名になった漢成立の物語は“背水の陣”“四面楚歌”などの言葉が生まれるほどの、まさに歴史の名場面がいくつも登場します。蔡倫は漢の時代を生きた人でした。漢が滅ぶと三国志の物語=諸葛孔明とか曹操が活躍する時代へと移ります。そして紙の歴史では楊貴妃が玄宗皇帝をメロメロにした唐の時代までが最も重要なのです。

 

宦官は影の権力者に

 蔡倫は後漢の時代の宦官です。宦官とは男であって男で無い宮廷に仕える役人の事を言います。出世の為に宦官となった人と、宮刑(役人に対する罰)によって宦官にさせられた人がいます。なぜこのような人がいるのかと言うと、後宮(日本で言う大奥)に出入りする者としての役割があったからです。そうです宦官は去勢手術を受けた男性なのです。皇帝や皇后に仕え朝な夕なに身の回りの世話をしますので家族同然となります。必然的に影響力は大きく影の権力者になり得る存在でした。肉体の違いは精神のコンプレックスを生み結束力が強く、金や権力に執着したと言われています。権力の中枢にいたので宦官の物語はたくさんあります。
 宦官の中で最も悪名高いのは始皇帝に仕えた趙高(ちょうこう)でしょう。この人は「馬鹿」を作ったと言われています。趙高は始皇帝に仕える宦官で始皇帝が死んだとき傍にいました。そして遺言をねつ造し自分の言いなりになる胡亥(こがい)を次期皇帝にしたのでした。勿論自分の地位を維持したいからです。躊躇する胡亥に対し「断じて行えば鬼神もこれを避く」と言い放ちました。そして権力を握った趙高はある日、鹿を連れて来て「見事な馬だ」と言ったのです。趙高を恐れる人々は「馬だ、見事な馬だ」と言いました。「どう見ても鹿だろう」と言った者は皆あとから捕えられ殺されました。ここから「馬鹿」という言葉が生まれたと伝えられています。

 

『紙』はなぜ糸偏か

 さて蔡倫ですが優秀な宦官だったようです。真面目で大いに出世しました。紙の作り方に工夫を凝らし見事な紙を作り皇帝に献上して誉められたと歴史書(後漢書の宦者列伝や東観漢記)にその名があります。石臼を使った事も記録に残っていて、紙の製造法を改良し確立した人として知られ、西安の西の方に蔡倫の(と伝えられる)墓があります。
 そもそも紙は洗濯後の衣服(布)の屑から作られたと言うのが定説です。現代の我々も洗濯機を回すと繊維の屑が溜まるので適時に取り除いていますが、あの屑が紙の原料であったのです。紙のようなものは恐らく沢山の洗濯をした後、桶の水を取り換えずにいたところ水が蒸発し、シート状の物が残るなどして、自然発生的に見つかったものと思われます。そして蔡倫は古着、使えなくなった漁網や麻などを主原料として使用し、水の中から抄き上げる技法を確立したのだと思います。ですから「紙」は糸偏の漢字になっているのです。木材からパルプが作られ紙となると教わった私は、ようやく「紙」という字がなぜ糸偏なのかわかりました。
 蔡倫は良質な紙を作った功あって出世をします。しかし蔡倫の出世はそれだけが理由ではありませんでした。